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周防解読万葉歌 第1部

巻第一 2番歌〜22番歌まで


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周防と関連してくる万葉歌の解読に少しずつ着手することにしました。今までの訓は可能な限り残して、変える必要性のある部分だけを変えていきます。

また、歌の意味や解釈にしても同じで、変える必要性のある部分だけを採りあげます。長い間人々の心に浸透してきた歌を今すぐに変えてしまうのは暴挙になります。

ここでは今すぐに変えることは考えずに、百年の歪みは百年を以って修正するという心で取り組みたいと思います。 必ずや後世の役に立つと信じて。 2014年10月。

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萬葉集巻第一 2番歌

高市岡本宮に天の下治めたまひし天皇の代  息長足日広額天皇

天皇、香具山に登りて望国したまふ時の御製歌


大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は


上述した2番歌は奈良県橿原市にある香具山に登って詠まれた歌です。

内陸である奈良県になぜ「カモメ」が飛んでいるのかということは真っ先に疑問を抱くことです。

その意味は、この歌の1つ前の1番歌に示されています。「虚見津(そらみつ)」とある枕言葉です。

虚という文字は「ない・存在しない」という意味を持っています。転じて想像していることになります。

つまり、カモメは想像であり、歌人の心のなかで飛んでいます。戦乱を避けて初代ヤマトの地から

奈良県に移住して来たのでしょう。そうして初代ヤマトの地と同じような山を見つけてその山にも

同じような呼び名を付けた訳です。ですから、歌人の心のなかでは初代の地と今の現実とが複雑に

交差しています。初代ヤマトの地には「小山(こやま・香山)」という香具山と同じぐらいの標高をしている

山があります。ふもとは遠浅干潟の海峡でした。だからカモメも多く飛来していたと思われます。当時の人々には

それを説明する必要など無かったのでしょう。したがって、歌の前半が現実(今)であり、後半は虚(過去)です。






この歌を詠んだのは息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかてんのう)です。この人は日本書紀によりますと

舒明天皇(じょめいてんのう)です。この天皇には疑問点がありまして、皇位に就いた順から見てみますと、

推古天皇 ⇒ 舒明天皇 ⇒ 皇極天皇 となります。黄色い文字が女性の天皇です。舒明天皇は敏達天皇の

孫の子と日本書紀にあります。そして、敏達天皇は豊御食炊屋姫(推古天皇)を妻にしていたとあります。

そのことに関して、日本書紀の雄略天皇の段にこんな記述があります。「天皇は、みずから是(ぜ)とし、他人に

御相談なさらなかった。誤って人を殺させることが多かった。天下は天皇を誹謗して、大悪の天皇である、と申した。

ただ寵愛(ちょうあい)なさったのは史部の身狭村主青(むさのすくりあお)と、檜隈民使博徳(ひのくまのたみの

つかいはかとこ)だけであった。」
 とあります。これは青が推古天皇で、博徳が聖徳太子のことです。



以上は日本書紀の記述ですが、古事記の歌を分析しますと、推古天皇の夫は推古天皇の手によって夜床で暗殺され、

屋敷を焼かれます。「燃ゆる家群 都麻(つま)が家の辺り」とある一節です。つまり、天皇の名こそ違えど、その暗殺された

夫というのは初代ヤマトを滅ぼした憎い男だったわけです。そうすると雄略天皇と敏達天皇は同一人物ではないか

ということも考えられるわけです。分散記述しておかないと消されてしまう恐れがあったのでしょう。

推古天皇の死因についても不可解な点が多く、暗殺されたのではないかと私は思っています。



そのことを頭に入れておいて、本題の舒明天皇は推古天皇の後で皇位に就いています。その際、推古天皇の

皇位継承に関する遺言などは無かったので皇位を継ぐ人物の選定にモメたということが日本書紀にあります。

そもそも暗殺されたのですから遺言など託す余裕など無いです。



さて、舒明天皇の後で皇位に就いたのは皇極天皇ですが、その母は吉備姫王(きびつひめ)と日本書紀にあります。

さては日本紀を書き変えた時に気づかなかったのでしょう。^^。古事記にこんな歌があります。仁徳天皇の黒姫の段です。

山縣に 蒔ける青菜(あおな)も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか

侵攻される前から吉備とは友好関係にあったことの大事な証明です。この歌は日本書紀の仁徳天皇の段にはありません。

吉備は神武東征の章で明らかにしましたように、憎い敵にやられています(後述)。


ここで言いたいのは、舒明天皇は初代ヤマトの系譜をひく人物に挟まれているということです。

推古天皇(初代ヤマトの人物) ⇒ 舒明天皇(百済の人物) ⇒ 皇極天皇(吉備王国の人物)

舒明天皇がどういう人物なのかを探ってみますと、日本書紀にこうあります。

「十三年の冬十月九日に天皇は百済宮でお崩れになった。十八日に宮の北で殯(もがり)をした。これを百済の大殯(おおもがり)という。」 

とあります百済の人物です。


万葉集の話しに戻りまして、

1番歌が雄略天皇の歌で、2番歌が舒明天皇の詠んだ歌としてあります。

そうした人物を万葉集の冒頭に置いて万葉集編纂の意図が示してあります。

歌そのものも当人が詠んだとは思えず、当時のヤマトの系譜をひく歌人たちが詠んだのでしょう。

さらに3番歌に進みますと騎馬民族が明確になってきます。

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萬葉集巻第一 3番歌

天皇、宇智の野に遊猟する時に、中皇命、間人連老(舒明天皇の皇女)に献らしむる歌


やすみしし 我が大王(おほきみ)の 朝(あした)には 取り撫でたまひ 夕(ゆうべ)には

 い寄り立たしし みとらしの梓(あづさ)の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり 朝狩に 

今立たすらし 夕狩に 今立たすらし みとらしの梓の弓の 中弭の 音すなり



反歌 4番歌

たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野


3番歌は舒明天皇九年三月の記述が基になっており、上毛野君形名を将軍にしたが敵を前にして仲間の軍勢はみな

逃げてしまって途方にくれた。上毛野君は夜になって垣根を越えて逃げようとしたが、その妻が思いとどまらせて

数十人の女に弓の弦をブンブン鳴らさせたところ、敵は軍勢が多く残っていると思い込んで退いた、という記述から

来ています。上毛野君形名の読み方は現状では「かみつけのきみ」としてありますが、これは「あげのきみかたな」

と読むのが正しいと思います。上毛野君は徹底的にバカにされてコキ降ろされています。そうした部分を見ても

日本書紀が侵略者の意図で書き変えられているのが垣間見えます。侵略者とは、次にある反歌で明確になります。



反歌の宇智の部分は原典では「内」の文字が使ってあります。奈良県五條市大野町一帯で詠まれたということで

問題はないのですが、「内」は地震(なゐ)とも解読することができます。地震(なゐ)とは戦乱を意味しています。

「〜なゐの大野に 馬並めて〜」と解読すると、周防では平生町大野になります。平生町大野という所は神武遠征の

章で見ましたように神武堂のある箕山の登山口でもあります。平生町大野の南側を仰ぎますと箕山があり、大野に

たたずむと箕山に見おろされている感じさえあります。また、箕山は推古天皇の殯の宮跡ではないかと思われる

通夜堂跡という遺跡も残っています。その通夜堂跡に寄り添っている神武堂は殯の宮の番神として祀られた可能性があります。

よい香りがしたことでしょう。^^。ここで徹底的に仇をとっているようです。結局、万葉歌はそうした背景を基にして

移住先の奈良県で詠まれた、と解釈すれば正統ではないかと結論付きます。歌が二面性をもっているようです。










平生町 大野八幡宮




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次に5番歌に移りまして、その5番歌は讃岐国で詠まれたとあります。讃岐とは現在の香川県の辺りです。


萬葉集 巻第一 5番歌

讃岐国の安益郡(香川県綾歌郡の辺り)にいでませる時に、軍王(いくさのおほきみ)、山を見て作る歌


霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むら肝の 心を痛み ぬえこ鳥 うらなけ居れば 玉だすき

かけの宜しく 遠つ神 我が大王(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 

朝夕に かへらひぬれば ますらをと 思へる我も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の

海人娘子(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひそ燃ゆる 我が下心


反歌

山越しの 風を時じみ 寝る夜落ちず 家なる妹を かけて偲ひつ


(上の歌)、日本書紀にただすに、讃岐国に幸(いでま)ししことなし。また軍王(いくさのおほきみ)も未詳なり。

(中略す) 一書に、 「この時に、宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹に、斑鳩(いかるが)と比米(ひめ)との

二つの鳥いたく集けり。時に勅(みことのり)して、多く稲穂を掛けてこれに養はしめたまふ。よりて作る歌云々」

といふ」 といふ。けだし、ここよりすなはち幸(いでま)せるか。



今まで奈良県で詠まれていたのに、なんでここへ来て四国の香川県なのか不審に思われたならその通りです。

神武遠征の高島の宮から青雲の白肩の津に関連しています。先ず吉備から語りますと、吉備に高島という島は

二つありまして、昔からどちらが神武東征に関係した本物の高島かということで論争に挙げられてきたことは

ご承知の通りです。率直に申しますと、どちらの高島も本物です。倉敷の高島を本拠地にして軍勢を二手に分散

させています(下図参照)。そして鬼の城神籠石を拠点にして、岡山市の高島側からの援軍とで挟み撃ちです。

襲撃は夜間に行われたことが歌の「寝る夜落ちず」とある一節からもうかがえます。

その戦法は香川県でも使われました(下の下図)。




吉備は笠岡市の高島をベース基地にして鬼城山組と児島湾組とで二手に分かれます。

鬼城山侵攻組は福山から陸攻したか(黄色矢印)、それとも高梁川をさかのぼったか(赤ライン)、どちらかです。

造山古墳の主軸線から導いてみますと、高梁川をさかのぼって鬼城山を侵攻しています。しかし、福山側も無視できません。





この長歌も反歌も共通した言葉が出て来ます。「〜山越す風の〜」と「〜山越しの〜」です。それは侵攻経路を意味

しており、神武遠征の章を見ていただけばわかるように、裏手裏手の山越しの戦法です。だから歌には「たづきを知らに」

方法がわからないまま、といった意味ですが、その言葉が網の浦(香川県坂出市)に掛かっています。だから、この長歌

には吉備と讃岐の両方が入っていることになります。香川県綾歌郡にはその事を記録した墳墓が存在していますし、

吉備にも在ります。また奈良県の天理市にもあります。すべて万葉歌のポイントです。下図を参照してください。




古墳の所在地に注視してください。すべて万葉歌に関係する地点です。

挟み撃ちの史実を墳丘を以って伝える方法をとったのでしょう。

両側に前方部が突出している古墳を「双方中円墳」と言います。


岡山県倉敷市  楯築弥生墳丘墓 (内部リンク)

その他の遺跡の詳しいことは、神武遠征の章に掲載予定です。


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長歌である5番歌で特筆するべきは、「〜かけの宜しく 遠つ神〜」とある一節です。ここでの「かけ」とは神社のことを

言っています。神社の「かけ」、つまり、相性がいい、という意味です。その相性とは、日の出に関係しておりまして、

岡山県の吉備津彦神社は夏至の太陽が真正面から昇ります。同じように室津半島にある伊保庄賀茂神社は

夏至の太陽が真正面から昇ります。さらに、近畿や岡山方面からですと室津半島は遠いですから「遠つ神」です。



次に反歌の注釈文に関することにうつりまして。

もう一度その注釈文を載せてみます。

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(上の歌)、日本書紀にただすに、讃岐国に幸(いでま)ししことなし。また軍王(いくさのおほきみ)も未詳なり。

(中略す) 一書に、 「この時に、宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹に、斑鳩(いかるが)と比米(ひめ)との

二つの鳥いたく集けり。時に勅(みことのり)して、多く稲穂を掛けてこれに養はしめたまふ。よりて作る歌云々」

といふ」 といふ。けだし、ここよりすなはち幸(いでま)せるか。
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注目する部分は、稲穂を多く掛けて鳥が多く集まった、とある部分です。

そして、「ここよりすなはち幸せるか」とあります。つまり、軍王はそこから出発したのではないかと推察しています。

そのことについて、秋国である周防大島の大多麻根神社(おおたまねじんじゃ)にはこんな由来があります(以下)。

「飯の山の裾で今字古明神という所は往古の社地で、ここに田地数十歩あって当社の供田であったという。

保安のころ神官が争事あって神田の稲を刈り取ろうとしたら、宝殿から蛇三百ばかり出で、暫くありて入り、

また刈り取ろうとすると数百の鳥来て稲の穂を喰い抜いて皆神殿の上を葺いたという(古今著聞集)。」

実によく似ています。神武東征は秋国である周防大島から吉備へと進んでいますから、万葉集の注釈文と

大多麻根神社の由来は合っています。なお、由来にある古明神という往古の社地は下の写真です。




大多麻根神社から下に下りた所です。上を国道437が走っています。

画面にお旅所が見えます。ここが往古の古明神です。今は駐車場になっています。

この駐車場から徒歩で下の海浜に下りますと、往古の参道が残っています。




昔は参詣するのに道が無く、ここに船を乗り付けて参詣していたと記録にあります。

今も、かっての参道石段が崩れかけた状態で残っています。

まるで梯子を登るごときすごい急傾斜の石段に圧倒されます。保存したいですね。




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萬葉集 巻第一 7番歌

額田王の歌 未詳

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇佐路の都の 仮廬し思ほゆ

(上)、山上憶良大夫の類聚歌林に検(ただ)すに、いわく、

「一書に、戊申の年、比良宮(ひらのみや)に幸せるときの大御歌」といふ。(以下略)


原文字では秋の文字を「金」とあります。「金野乃〜」五行思想で金は秋になるわけですが、

当時はすでに秋という文字はあったはずです。それをなぜ「金」の文字を使って「秋」と

読ませたのか不審に思いました。中国には「金」の時代がありまして、その時代だけ

女王だったわけですが、それは西暦が1114年のことであり、年代的に合いません。


次に、金を「こん」と読んでみますと柳井市伊陸が該当してきます。私はそれで随分と

考えたのですが、万葉集の歌の前後関係を見ますと、やはり今まで通り「秋」と読んで

秋国(周防大島)を意味すると、前の6番歌の注釈文との繋がりが明瞭になります。さらに、

歌には「〜み草刈り葺き 宿れりし〜」とあります。それは後の11番歌に関連しまして、

実際の順序でいくと、11番歌が先にならなくてはならないのです。歌を載せてみます。


我が背子は 仮廬作らす 草なくは 小松が下の 草を刈りんさぁね


小松とあります。秋国である周防大島には今でも小松(こまつ)と呼ばれている所が存在して

おりまして、そうすると、7番歌(秋国)と11番歌(秋国の小松)で繋がりが明確になります。


ところが、歌には「うぢ」とあります。今までは京都府の宇治と考えられてきました。

うぢの部分を原文字で見ますと、「兎道」と書いてあります。それを「うぢ」と解釈しているのですが、

これは「うさぢ」ではないかと思います。つまり、「宇佐路」であり、神武遠征の始発地を

意味しているとしたら、歌は「〜宇佐路の都の 仮廬し思ほゆ」となり、歌の繋がりが明瞭になります。

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇佐路の都の 仮廬し思ほゆ

以上のようになります。

歌がまだ57577の定形に定まっていないところを見ると、相当に古い歌と見ていいでしょう。

そうしたことは古事記の歌を見ればまだ定形が出来上がっていない最古歌を収録してあること

からも明らかです。古事記の歌は歌の進化していく過程を見る上でとても記録的な意味があります。

ちなみに古事記で定形が完成するのは通称、鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)の段

です。勿論、古事記全域での歌の並び順はバラバラですが、赤玉の歌でひらめきがあり、

沖つ鳥の歌で完成の域に達しています。古事記の歌は駄作とさえ言われて来たのですが、

我が国での歌の進化過程を知るうえにおいてきわめて大事です。



さて、この歌を作った(詠んだ)のは額田王(ぬかたのおう)とあります。

この人は生没年は不明で、どんな人だったのかよくわかっていません。

注釈文の記述から見える額田王の歌は万葉集全域で十数首あります。

それらの歌を見ますと、他国からの侵攻があった前後に生きていた人だと

わかります。そうして遺跡の年代などとを重ね合わせて考えますと、中国の

年代設定でいくと宋の時代、いわゆる春秋時代に生きた人であるということに

なってくるのです。そもそも中国の宋という時代は曖昧な部分がありまして、

紀元前の宋と、紀元後の宋とがありまして、なんで同じ名を付けなくちゃならなかったのか

不審な面が多々あるわけです。それを暗示しているかのごとく、額田王の同じ歌が

巻第四の488番歌と、巻第八の1606番歌に出てきます。それも、どちらも鏡王女

と並んで登場します。そもそも額田王は万葉集の始めの辺り(巻第一〜巻第二)

で登場している人であり、なんで巻第四や八の辺りで離れて出てくるのか不審な部分が

多々あります。そのことは、中国の宋の時代(二つ)を暗示しているように思えてなりません。

そのことは、少し後の歌で、より明確になってきます。とりあえず前置きして進みます。




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万葉集 巻第一 8番歌

額田王の歌

歌の津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ込みな


「歌の津」の部分を原典では「熟田津」の文字で書いてあり、現状は「にきたつ」と読んでいます。

「にきたつ」という所は存在しておらず、斉明天皇の記録を基に推測してあります。日本書紀の

斉明天皇七年正月十四日、「御船は伊予の熟田津の石湯行宮に着いた。熟田津これを「にきたづ」

と云う。」と書いてあることから、愛媛県松山市の道後温泉であろうか?としてあります。

この件は斉明天皇の記録が事実であるかどうかを検証しなくてはならず、そもそも斉明天皇

という人は女性であり、元は皇極天皇です。記録上では返り咲きをしたことになっています。

記録上で利用されたような、不審な面が多々あるわけですが、ここでは熟田津だけを考えます。


万葉集で「にきたづ」が登場する歌は全部で五首あります。それらの原文字を並べて解読してみます。

8番歌  熟田津 ⇒ うたのつ ⇒ 歌の津

131番歌  和多豆 ⇒ わたのつ ⇒ 綿の津

138番歌  柔田津 ⇒ やわたづ ⇒ 八幡津

323番歌  飽田津 ⇒ あたのつ ⇒ 阿多の津

3202番歌  柔田津 ⇒ やわたづ ⇒ 八幡津


ご覧のように、すべて「からと水道」で詠まれた歌です。

次に、「漕ぎ込みな」の部分です。原文字で見ますと、「許藝乞菜」となっています。

これを解読しますと、「漕ぎ来いな」とか「漕ぎ込みな」になると思います。

「漕ぎ来いな」とすると歌の前半とで繋がりが不自然になるため、ここは「漕ぎ込みな」と

解読すれば遠浅干潟の「からと水道」に漕ぎ込むという意味において明瞭になります。




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万葉集 巻第一 9番歌

紀の温泉に幸せる時に、額田王の作る歌

莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子が い立たせりけむ 厳橿が本


この歌の前半部は訓義未詳として、解読不能としてあります。

では、一文字、一文字、それぞれの読み方から見ていきます。

の文字   モ バク マク な

の文字  ゴウ キョウ かまびすしい

の文字  エン まるい まろい まどか

の文字  リン となり となる

の文字   ゆく これ の この

の文字  ダイ タイ おお

の文字  ソウ ショウ あい

の文字  シチ なな ななつ なの

の文字  ケイ キョウ あに 

の文字  ソウ ショウ つめ

の文字  エツ エチ なふだ まみえる

の文字   ケ


ご覧のように、母郷まどかとなりし たいそう萎え 宋へつき・・・と、なります。


なお、元暦校本では「囂円隣之大相七兄爪気」となっているようです。

「祖郷まどかとなりし たいそう萎え 宋ゆき(宋行き)」・・・と、なり、意味は同じです。


この後の読みも大事です。

「我が急こし い建てせりけむ 五つ貸し賀茂と」

「吾瀬子之」方言が入っています。「我が急こし」・・・急かすという意味の方言です。

急かすとは、次の建てるにかかっており、室津半島に五社の賀茂神社を建てたという意味です。


「貸し賀茂」と読む根拠は古事記の歌にありまして、雄略天皇の赤猪子の段にあります。

「御諸の いつか志賀もと 貸し賀茂と ゆゆしきかも 橿原乙女」

滋賀とありますから、近江八幡市の賀茂神社を言っています。


万葉歌の結論として以下のようになります。

母郷まどかとなりし たいそう萎え 宋へつき 我が急こし い建てせりけむ 五つ貸し賀茂と

母郷まどかとなりし たいそう萎え 宋へつき 我が急こし い建てせりけむ いつか志賀もと


宋とあることにつきまして、中国の宋は紀元前と紀元後の二つの宋があります。

なんで同じ名をつける必要があったのかという不審点はぬぐえません。

どちらの時代の宋かということは、関係する遺跡の年代測定からわかります。

もし紀元後の南朝時代の宋としますと、日本の遺跡の年代と合いません。

遺跡の年代と合わせますと春秋時代の紀元前の宋であることになります。

日本での年代は通称縄文時代後期から弥生時代前期の頃になります。

その年代で設定すると各遺跡の年代とピタリと合います。


我々は縄文時代と言うと、原始時代みたいな感覚で語っていますが、

日本の文化がいかに古く、そして優れていたか、ということです。

世界各地から日本を目指して訪れていた、そしてそれらの文化を吸収した。

だからこそエジプト王墓の絵文字にまで畏敬の念を以って記してあるのです。


ひいては、なぜ宋は紀元後に同じ名をつけたのか、ということにまで言及できます。

そのことも万葉集に入っています。また懐風藻(かいふうそう)という漢詩集にもあります。

さらには仏教の経典にもあります。このまま解読していくと、ジワジワと出てきます。





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万葉集 巻第一 10番歌

中皇命、紀の温泉に往く時の御歌

君が代も 我が代も知るや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな


「君が代も」の部分、原文字では「君之歯母」となっており、

「君が歯も」と読むのが作者の意図するところだと思いますが、

今まで通り「君が代も」と読んで問題は無いので、このままいきます。

一応、歯の意味するところを出しておきますと、神籠石列石を歯と呼んでいます。

だから、歌には「磐代(いわしろ)」という言葉が入っています。


岡の草根を結ぶ、とあることに関しては、神社の方位線を結ぶ、という意味です。

それを風流に岡の草根と詠んでいます。神籠石列石のある石城山には多くの

古い神社があり、それらの神社を総称してそう詠んだのでしょう。




歯がよくわかる画像。女山神籠石にて。





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万葉集 巻第一 11番歌

我が勢子は 仮廬作らす 草なくは 小松が下の 草を刈りんさぁね


この歌は前の7番歌と一緒にセットになっていたはずです。

7番歌は「秋の野」で周防大島になり、この歌も小松が出てきますから周防大島の小松です。

小松は大島大橋を渡った辺りで、大多麻根神社(5番歌・注釈文)の辺りを今でも小松と呼んでいます。


歌の「刈りんさぁね」の部分は原典では「苅核」になっています。核は果実の「たね・さね」を

意味しており、「刈りさね」となり、方言が入って「刈りんさぁね」とか「刈りさんね」となります。





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万葉集 巻第一 12番歌

我が欲りし 野嶋は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠そ拾はぬ
(或るは頭に云ふ、「我が欲りし 子嶋は見しを」)

(上)山上憶良大夫の類聚歌林に検すに、曰く、「天皇の御製歌なり云々」といふ。


からと水道近辺には昔から東側と西側とに2つの野島がありまして、

1つは大畠瀬戸の笠佐島の隣りにあり、もう1つは平生町にあります。

平生町の野島は今では陸地になっており、街なかの小丘といった趣きです。

東西どちらから来ても、からと水道の進入口に野島があり、阿児山(赤子山とも)

があり、珠もあります。この歌を単体で考えますと、どちらの野島も該当します。


そのことを先ず記したうえで、万葉集の歌順で考えますと、ここまで周防大島が

重点になっており、それを考慮すると、大畠瀬戸側の野島であるということになります。


「〜阿胡根の浦の 珠そ拾はぬ」 阿胡根とは阿児山を意味しており、赤子山とも呼ばれます。

阿児根の根は「ふもと」を意味しており、方言で「何々のネト」と言うと下の方を言います。

ネトは大小を問わず使われており、木のネトと言うと、木の下を意味し、山のネトと言うと、

山のふもとを意味します。したがって、根はそうした方言を万葉仮名で表記したと思われます。


大畠瀬戸から入りますと、阿児山のふもとですから、野島を左(南側)に見てからと水道に進入します。

次に、「珠そ拾はぬ」の珠とは、意味深いものがあり、行き着くところは般若姫物語になります。

般若姫物語は実話を基にして大幅に仏教色豊かに改変脚色したものです。

その物語のなかに般若姫である玉絵姫が登場します。古事記では玉依姫で書いてあります。


その玉依姫が推古天皇ではないかと思われるのですが、般若姫物語では入水して果てます。

その入水地点を探っていきますと、柳井市新庄の山陽本線下になります。そこは幻の海上大寺が

在った所であり、山陽本線敷設の時、直径約2メートルの礎石を破砕しています。その礎石こそ

幻の海上大寺の礎石だったと考えられます。万葉歌の「珠」はそうした意味を含んでいます。

やがて万葉歌は、その海上大寺で詠まれたのではないかと思われる三山歌へと繋がっていくのです。





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万葉集 巻第一 13 14 15番歌

中大兄 近江宮に天の下治めたまひし天皇 三山歌一首

(13) 高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉


反歌

(14) 高山与耳梨山与相之時立見尓来之伊奈美國波良


(15) 渡津海乃豊旗雲尓伊理比紗之今夜乃月夜清明己曽


右(上)の一首の歌は、今案ふるに反歌に似ず。ただし、旧本にこの歌を以て反歌に載せたり。
故に、今も猶しこの次に載す。また、紀に曰く、「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳(いつし)に、
天皇を立てて皇太子としたまふ」といふ。


(右の一首の歌は、今考えてみるに、反歌らしくない。ただし、旧本ではこの歌を反歌として載せている。
それで今もやはりこの順序で載せておく。また日本書紀には「皇極天皇の四年、中大兄皇子を立てて
皇太子とされた」とある。)




注釈文で15番歌は「わたつみ」が出てくるのはおかしい、と謎かけています。

そして、古い本に載せてあるのでそのまま載せておく、と言っています。

「わたつみ」というのは海神のことです。海の無い奈良県に海神が出てくるのは

おかしいと言っています。海神のことをなぜ「わたつみ」と言うのでしょうか。


「からと水道」の何処にいても石城山神籠石が見えます。神籠石遺跡は

綿花の樹園の跡であることは、この海風想で何度も採りあげました。

「わたつみ」とは、文字通り「綿摘み」であり、その綿摘みの女性は

海に身を捧げて海神になります。「わたつみ」の語源はそこにあります。

神籠石遺跡は綿花の樹園の跡です。からと水道には綿と海とが一緒にあります。


さて、13番歌の詠まれた地点ですが、そこは綿摘みが海に身を捧げた所です。

現在は濡田廃寺と呼ばれることもありますが、濡田廃寺とは別に厳島神社のような

海上に浮かぶ大寺(仏塔?)が在ったのです。現在の柳井市新庄の山陽本線脇です。

そここそ「綿摘み」が海に身を捧げた所。13番歌はそこで詠まれたと思われます。


歌はやがて14番歌になって、海上大寺から約2km程度西へ移動します。そこには出雲大社の

前身となる高い塔(神殿)がありました。古事記ではその高い塔(神殿)を鉾にたとえています。

その塔の地下には双胴船と思われる俗に太陽の船が埋納してあります。地下約20m付近です。

船は地下水によって守られています。そのことを把握しておけば、後の万葉歌の解読に於いておおいに進展します。



歌の詳しい説明は神籠石紀行のページで採りあげていますのでそちらをご覧ください。

ページを再編集してこちらへ移す予定です。しばらくリンクページでご覧ください。




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万葉集 巻第一 16番歌

近江大津宮に天の下治めたまひし天皇の代
天命開別天皇 おくりなを天智天皇といふ

天皇、内大臣藤原朝臣に詔して、春山万花の艶と秋山千葉の
彩とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王、歌を以て判る歌


冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ

入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ

青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は




歌に付いている注釈文はだいぶ後の世になって記紀などを参考にして推測して記入したものです。

だから合っているものもあれば全然違うものもあります。本来には歌しか無かった、ということを

充分認識して取り掛からないと、注釈文に踊らされてしまいます。この注釈文もそうした面を隠せません。

要は先ず、歌だけを見ることです。


詩である歌は、記録のように詳しく説明はしません。つまり、受け取り手のフィーリング如何によるところが多いです。

歌が詠まれた当時の人々には、たったの一文字だけを入れたら瞬時に理解できた、という面を抜きにはできません。

この歌もそうした一面を以っています。なぜ「青」を置いて来たのが悔やまれるのでしょうか?青とは何を意味?


そうして考えますと、日本書紀の身狭村主青(むさのすくりあお)が見えてきます。推古天皇のことです。そうすると、

前の三山歌で分析した歌との関連性が出てきます。海に身を捧げた「綿摘み」です。大野の上の丘(箕山)で殯をして

南側ふもとの麻里府に浮かぶ阿多田古墳に埋葬されます。やがて、いつの時代にか近畿へと改葬されます。

そうすると、歌の一連の繋がり連続性が出てきます。歌人は、からと水道を旅しながら歌を詠んだのでしょう。


「秋山」の部分です。

秋を「しゅう(周)」と解釈すると・・・・・殷(いん)の次の王朝で、文王の子の武王が紂王(ちゅうおう)を滅ぼして

鎬京(こうけい・今の西安市の西南)に都し、紀元前770年、平王に至って洛邑(らくゆう・河南省の洛陽)

都を移した。以後約五百年を東周といい、それ以前の約三百年を西周という。また、この頃から春秋時代。

歌中の秋山をどうとるかは難しいところです。口語訳には訳せない奥深いものがあります。




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万葉集 巻第一 17番歌

額田王、近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌

(17) 味酒 三輪の山 青丹よし 奈良の山の 山の際 い隠るまで 道の隈 い積もるまでに

委ねくも 見つつ行かむを 数々も 見さけむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや


反歌 18番歌

(18) 三輪山を 膳も隠すか 雲谷も 心あらなも 隠さふべしや

(上)の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧す御歌なり」といふ。

日本書紀に曰く、「六年丙寅(へいいん)の春三月、辛酉(かのとのとり)の朔(つきたち)の己卯(みずのとのう)に都を

近江に遷す」といふ。



17番歌

この二首は移住して行く時の名残り惜しい心情を詠んだ歌です。

17番歌の「委ねくも」の部分が特に重要で、今までは「つばらにも」と解読して曖昧さがありました。

原典の文字を見ますと「委曲毛」の文字が使ってあることから「ゆだねくも」という解読が相応しいです。

何を委ねるのかということは、三輪の山、つまり初代の風情を移住先の奈良県の三輪に委ねる、という意味で解釈します。


この解読では可能な限り現行訳に従うポリシーでやっていますので、ここでは委ねる部分だけを変えてみました。

実際には「委ねくも」の前の部分に「萬代」という文字が二か所あり、現行訳では「まで」とか「までに」と読んでいます。

そこの部分はほかの意味としての可能性もあり、「萬代まで委ねよう」といった意味としての解釈もできるかもしれません。



18番歌

この歌をストレートに受け取りますと、雨が降っていて雲が低くたれ込み眺めを遮っている、というふうに取れます。

それもあるのかもしれませんが、本意は「隠す」という部分に集約されているように思います。「三輪と青丹」があり、

さらに「三輪と膳」があることにより、おのずと古事記にある美和の大物主神が背景にあることが察せられます。


現在の山口県光市三輪にはコンピラ山の頂上に三輪神社があります。古記録によると、

三輪は元「美和」とも書いていたことが記してあります。その三輪の山(コンピラ山)のふもとの川を

流れ下って行くと、やがては麻里府に出て、そこには阿多田古墳があります。青であり膳です。


「雲谷も」の部分は説明を付け難いのですが、率直に言って出雲の雲を意味しています。

波野スフィンクスの前脚の先の辺りに双胴船が埋納してあります。そこには、かって高い塔が

建っていました。その塔はやがて島根県出雲に移されるのですが、地下に埋納された双胴船は

そのまま残されました。その事は万葉集にも歌で記載してあります(巻第三・257〜260)

そうしたことから「雲谷」という言葉が出たのだろうと思います。先に挙げた美和の大物主が流れ下った

田布施川からそれらの全景がよく見渡せることから、川を下りながら歌を詠んだとも解釈できます。


そうしたことから、この二首は広く見て、初代の遺跡を隠すけれど名残り惜しい、

というふうに全体を解釈すれば合うと思います。




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万葉集 巻第一 19番歌

綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢

(上)の一首の歌は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。

ただし、旧本にこの次に載せたり。故以に猶し載せたり。



(現状の諸本の訳) へそかたの 林のさきの さ野榛の 衣に付くなす 目に付く我が背


「へそかた」と訳す理由は、綜の文字にあり、綜(へ)とは機織りをする時に縦糸を通して整える道具です。

問題点は「林始乃」にあります。「始」の文字を現状では「さき」と解読しています。

始はどう読んでも「さき」とは読めません。やはり「はじめ」です。

そうすると、「はやしはじめの」と解読されます。


そこで歌の前半は置いて、後半をみます。「きぬにつくなす めにつくわがせ」とあります。

「衣に付くように目につく我が君です」という意味です。何が衣に付くのでしょう?

現状では榛の木が衣に付くように、と解釈してあります。

榛の木が衣に付くとは何を意味しているのかと考えましたが、明確になりません。


そうして、「勢」の表現が出てくる歌は、もう一首、35番歌にもあります。

その歌には「勢の山」とあります。勢の山とあることにより、

「勢」とは人物を象徴した山のことを言っているとも考えられます。


「我が勢」を山として考えると、「衣に付くなす」の意味が解けます。

それを解いたのが下の写真です。





海風想では波野スフィンクスと呼んでいます。正式名称は波野行者山です。

頭の部分は、かって山頂古墳だったろうことは諸資料や古事記でわかります。

誰の古墳だったかと言うと、最初は市の辺の忍歯の王(仁徳天皇)であり、

やがて侵攻勢力によってふもとの天王原古墳に下ろされてしまいます。

それを掘り出して茅野の東の山(柳井市茶臼山古墳)へ改葬します。

そうした事は古事記の顕宗天皇の段に記してあります。

その後に近畿へと改葬されたのでしょう。


からと水道から見ますと、衣に相当するのは石城山神籠石であり、綿花の樹園跡です。

そうすると歌の衣に付いているのは勢(波野スフィンクス)の尻だということになります。


では次に、歌が逆行しますが、「狭野榛(さのはり)」を明確にしてみましょう。

狭野(さの)とは、狭い野原を意味します。今でも些少(さしょう)って言うでしょう。

そこにある榛(はり)です。榛とは、カバノキ科で「はしばみ」の古名です。

そうすると、狭い野原に、はしばみが生えている、というふうに取れますが、

現地で見ますと、榛は「針」を意味して高い塔のことを言っていることになります。

下の写真で説明します。





右側は波野スフィンクスの頭部です。前の写真と繋がっています。

写真の狭野榛の所には前の歌でも書いた出雲の前身である高い塔(神殿)が建っていたと思われる所です。

まだ推測ですが、そこの地下20m付近には双胴船が埋納してあり、地下水によって守られている可能性があります。


古事記の仁徳天皇に「枯野という船」の段があります。実際には枯野という名ではなく、歌の文字から

加良怒 (からと) という名だったことがわかります。その記述は次のようにあります。

「ある所に高い木があった、その木を伐って船を造ったら実に速く行く船だった。」


こんどは日本書紀を見てみますと、応神天皇五年冬十月の段にあります。

「長さ十丈の船を造らせた。船ができあがり、試みに海に浮かべたところ、軽く浮かんで、

船脚は走るように速かった。そこで、その船を名づけて枯野といった。」


以上の記述を見ても、速い船があったことは明白です。

速い船であったことは、そのまま万葉歌に通じます。「速し初めの狭野針の」です。

この歌では高い塔を針と形容していますが、鉾(ほこ)としている伝承もあります。


ここまで解読すれば、歌の頭 「綜麻形乃」 は明瞭になってきます。綜の文字は「そう」と読めます。

歌の後ろから合わせますと「総負けの」と解読すれば合います。よって以下のようになります。


総負けの 速し初めの 狭野針の 衣に付くなす 目につく我が勢


次に、この歌の詠まれた地点を探ってみましょう。

およそ先に載せた写真の位置になります。

緯度経度で明確にしておきます。

N 33度57分52.9

E 132度03分51.5

位置精度 +- 4メートル

この位置が歌のすべてが備わっている地点です。

特にE線上は大事で、3分50.0〜52.0の間になります





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万葉集 巻第一 20番歌・21番歌

天皇、蒲生野に遊猟する時に、額田王の作る歌

あかねさす 紫草野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る



皇太子の答ふる御歌
(明日香宮に天の下治めたまひし天皇、おくりなを天武天皇といふ)

紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも

紀に曰く、「天皇の七年丁卯の夏五月五日、蒲生野に縦猟す。

時に、大皇弟・諸王・大臣また群臣、皆悉従ふ」といふ。



別の章でも書きましたが、万葉歌には二面性があり、歌が八方美人です。

つまり、歌の内容が中央でもこちらでもあてはまるという二面性があります。



下写真2枚は田布施川を挟んで、ほぼ同一地点で撮影したものです。

岩戸スフィンクスは大物主の象徴です。そして、波野スフィンクスは神武天皇の象徴です。

だから、古事記の神武天皇の皇后選定の段には美和の大物主の神が入れてあります。

川を下りながらそれらの神々を第三者の視点から詠んだものです。







この川の流れ下った先の河口は麻里府であり、

そこには神花山古墳(木花の佐久夜姫)があります。

そして阿多田古墳(推古天皇)もあります。





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万葉集 巻第一 22番歌

十市皇女、伊勢神宮に参ゐ赴く時に、波多の横山の巌を見て、ふふきのとじが作る歌

河上の ゆつ盤(磐)村に 草生さず 常にもがもな 常處女(とこおとめ)にて

ふふきのとじは未詳なり。ただし、紀に曰く、「天皇の四年乙亥の春二月、

乙亥の朔の丁亥に、十市皇女・阿閉皇女、伊勢神宮に参ゐ赴きます」といふ。



前の20番歌と21番歌は川を下りながら詠んだ歌になっていました。この歌も川が主体です。

ただ、場所が少し離れており、田布施川から直線距離にして約18キロ離れた岩国市由宇の由宇川になります。

享和年中(1801〜1804)に編纂された玖珂郡志という古記録には以下のように記してあります。


要点の部分だけ抜粋します。 「岩邑実記に湯村とあり。この名目、湊村道後に温泉湧き出す。今、慈雲院の

下に薬師あり、湯の薬師と云。今は山田の薬師と云。そのほか、出合湯ノ尻の源左衛門居宅の湯のありしに、

所の者不浄の杓をつけしより、湯出ず。 今、そのありし所、畠中に温かなる所あり。寛政六年に出合の川端、

岩の間に温泉出れども、川の入り隅ゆえ取り立てがたし。」 欄外 「伊与にても道後・道前と云。湯尻の湯のマチ

と云ふ畠ありし。湯気ありて雪霜消える也。」


歌中の「とこおとめ」は由宇川の側にある榊八幡宮のことを言っていると思われ、祭神は比淘蜷_と仁徳天皇が古来よりの祭神です。

注釈文に伊勢が出てくるのは榊八幡宮のことでしょう。榊八幡宮の前面方向、由宇の沖合いには今でも伊勢小島と呼ばれる島があります。

なお、由宇周辺は、かっては道後と呼ばれますが、道後は「どうあと」と読み、ピラミッドテキスト(絵文字)にある「ドウアト」のことです。



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