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 納蔵原古墳 ・ 天王原古墳への道     



 「からと水道を漕ぐ」の章、2図〜3図の間、3・4キロ地点です。 (内部リンク)
 一応、距離計はゼロから出発します。
 ここを入って10メートルも行かない所に交差点があります。直進ですが、事故にご注意ください。

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 タバコ屋の前を通り過ぎたら、すぐに2図になります。ゆっくり走ってください。

 (2011-9月・追記)
 タバコの販売機は今はありません。
        

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 赤丸で囲んだ2つの標識が目印です。納蔵原古墳の案内と、誓立寺の看板です。
 黄色の矢印の路地を入って行ってください。
 すぐに登り坂になり、墓地のなかを通ります。

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 登り坂を登り切って平坦路になったら、左側に写真の案内板があります。
 車の駐車は、上の写真で道が見えなくなっている付近に、道幅の少し広い所があります。

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 反対側から見ると、こうなっています。ここから100メートルも登らない所に納蔵原古墳があります。
 夏期はヤブ蚊が多いので蚊取り線香をお忘れなく。

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 納蔵原古墳(なぐらばらこふん) 2006年8月撮影     









 前方部の先端から後円部を見たもの。
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 後円部から前方部を見たもの。
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 前方部の方向には蓮台寺山や八幡八幡宮があります(矢印・鉄塔部分)。   
 そして、さらに遠方には麻里府の神花・阿多田古墳があります。
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 納蔵原古墳の発掘調査の記録を部分的に引用させてもらいます。

 直径約10メートルの後円部に、長さ約10メートルの前方部を持つ前方後円墳である。後円部の段築成は二段であり、前方部と同高度に一段、さらにもう一段が古墳の頂上部まである。前方部は2回に分けて造られている。追葬が行われているため、その際に前方部を延ばした可能性がある。
 埋葬施設は、両袖型の横穴式石室である。羨道部は西側のくびれ部(前方部の根元)に開口する。羨道部の規模については、崩れているため不明である。墳丘の規模から推測すると、長さは2メートル程度で、やや西側に曲がりながら、少し開き気味に延びるものと思われる。古いタイプの横穴式石室である。
 副葬品の遺存状況からみると、第一次埋葬で供献された須恵器群が、第二次埋葬が行われる際に、玄室南東隅に片寄せられた形跡が明らかであること、また、第二次埋葬の須恵器の時期が微妙に遅れることなどにより、2回の埋葬が行われたと思われる。盗掘坑も歴然と残るなど、盗掘された痕跡は著しい。

 出土遺物については、ほとんどが須恵器で22点、土師器の破片が若干ある。鉄鏃が60本以上、奥壁部に3ケ所に分れてまとまった状態で検出された。鉄刀が二振、細かい断片となって出土した。全体形は知り得ない。特に、内面に木質を残した鍍銀(銀メッキ)鉄地柄縁金具の出土は注目される。他に刀子1本。槍先およびその下端の袋状石突の出土などは山口県では珍しい例である。馬具、鉄地金銅貼り辻金具1点、ホ具(鞍などを縛る革帯のバックル)3点がある。装身具は銅心金巻耳環が1個。玉類は全く出土しなかった。玄室奥の西側に不整形で浅い盗掘坑があることから、この付近が被葬者の頭部から胸部にあたり、かなりの装身具その他の宝物があったと推定されるが、残念ながらすべて持ち去られていた。
 墳丘裾部から埴輪片が出土した。ほとんどの破片は東側のくびれ部からの出土である。埴輪はほとんど円筒埴輪で、朝顔形埴輪も一部検出された。埴輪の出土した方向には、東側低地に弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡明地遺跡がある。さらに、古柳井水道(からと水道)から仰ぎ見ることを意識して、埴輪を設置されていたのだろう。こうしたことを分析すると、この古墳は6世紀の中頃(550年頃)に築造されたものと考えられる。

 発掘調査の記録から引用させていただきました。調査にかかわった方々の労をねぎらうと共に感謝します。

 納蔵原古墳については、「イザナギイザナミ(第2回)」(内部リンク) での解説も参照してください。
 納蔵原古墳や天王原古墳の人物的背景については万葉23首のページでも解説しています。  

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 納蔵原古墳見学が済んだら、車は方向転換せずにそのまま奥へ入って行ってください。一周できます。

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 ここで先ほどの道とふたたび出合います。

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 (写真・2011-9月・差し替え)    
 こんどは天王原古墳です。車を適当な所にとめて歩いて行きましょう。
 納蔵原古墳下にある誓立寺の駐車場にとめさせてもらうといいかもしれません。
 または、この道の前後はどちらも県道138に合流しています。ここの
 真下にある県道138脇の広場にとめて全線歩いてもそう距離はありません。

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 (写真・2011-9月・差し替え)  

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 (写真・2011-9月差し替え・追記)   
 案内板の所から西の方向を見ますと、天王原古墳は波野行者山のすぐ下に在りまして、
 密接な繋がりを持っていることが見えてきます。
 古事記を解読分析しますと、当初は波野行者山頂に在ったのをここに下ろします。そして
 茅野の東(柳井市水口茶臼山古墳)に改葬します。やがては近畿の大仙古墳(仁徳天皇陵)に
 改葬されますが、近畿に行くまでにも何箇所か中継地点が在ったようです。それぞれの地域の活性化に役立てたのでしょう。
 中継地点を知るには初代と共通した地名などでおよそ知ることができます。また、社寺の方位線にも記してあります。
 同じように先ほどの納蔵原古墳も石城山の高日ヶ峰から下ろされたものです。
 その人物はウガヤフキアヘズノミコトであり聖徳太子。これも近畿へと改葬されています。
 そうしたことを見ますと、最初は山頂に埋葬されており、今で言う山頂古墳だったようです。
       

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 (写真・2011-9月・差し替え)    
 案内板の所の細い路地を入って行きます。
 目指す天王原古墳は画面左の家の向こう側にあります。
        

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 (上写真2枚・2011-9月・差し替え)    
 先ほどの案内板の所から約2〜30メートル入りますと、こんなになっています。
 黄色矢印の所に天王原古墳の築石が見えます。  
 この石ですよという解説板などは何もありませんので、この写真を参考にしてください。
     

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 (上写真3枚・2011-9月・差し替え)   
 低い平野部の小丘に庭石のごとく残っています。古墳築石は南側に開口しており、
 画面に見える背面の丸い石は人の背丈くらいの高さがあります。
 見た感じよりも結構大きいんですよ。出土品は鉄製品を始めとして金環などがあります。
 夏に撮影したため少し茂っています。見学は冬季のほうがいいと思います。
    

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 下の写真は、ほぼ同じ地点から見た十数年くらい前の写真です。





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