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古代熱気球について


 社寺の方位線を見ると実に正確です。遠距離の線を引くためには現代に匹敵するほどの正確な地図が必要です。

それも極めて広範囲です。まだ上げてはいませんが、北海道も射程圏に入っていますし、諸外国も入っています。

その地図は測量なくしては得られません。測量といえば、日本の正確な地図を作った人物は「伊能忠敬」です。



伊能忠敬
1745〜1818

 延享2年(1745)上総国(かずさのくに・現、千葉県)小関村の名主、小関家の第三子として生まれた。

家は網元でもある。下総(しもうさ・千葉県)の佐原には名家の伊能家があった。

五十六歳の春に始まった全国測地の事業は、忠敬七十二歳のとき終った。七十四歳で没す。

地図はまだ未完の部分があったが、門人達が「大日本沿海実測図」と称す日本全土の地図を完成させた。

ふつうそれを伊能図という。



 しかし、忠敬が地図を作る約千年以上も昔に、すでに正確な地図が存在していたことになります。

忠敬は日本列島を歩いて測量したようですが、神代人達の測量方法は少し趣きが違います。熱気球による空中測量です。

 熱気球を証明するものとして、千葉県は条件がそろっています。まず、熱気球を複数上げるためには広い場所が必要です(九十九里平野)。

そして、熱気球ですから熱源となるものが必要です。これは薪や石炭などでは実用になりません。今も昔もガスが理想です。




茂原天然ガス

 茂原市は千葉県中部、九十九里平野の南端に位置する。付近一帯から産出する天然ガスが豊富で、

その埋蔵量は約六百億立方メートルといわれる。なかでも茂原、大多喜地方は県下有数の産出地になっている。

メタン系ガスの一つである天然ガスは、地下の新生代第三紀関層・秋元層のなかにあって、

淡黄色をした塩水に含まれている。この塩水から抽出した天然ガスは、おもに燃料用に使われる。

茂原一帯で鑿井(さくせい・井戸を掘ること)が始まったのは明治初期で、地下約千五百メートル地点まで掘り下げると暗褐色の

水が地上に噴出し、これを焼井戸と呼んだ。このガスを利用した一人として、茂原市上永吉で病院を経営していた千葉天夢がいる。

彼は明治三十二年に井戸を完成させ、病室や自宅などの灯火用に利用していたという。昭和二十年代に入って茂原天然ガスは急速に利用が拡大していった。




九十九里浜

 約六十六キロもつづく砂浜海岸




ジェット気流

 偏西風とは、地球の南北両半球の中緯度付近の上空を一年中吹いている強い西風のことであり、

日本だと太平洋からアラスカの方向に吹いている。その偏西風のなかに特に風速の強いジェット気流がある。

第二次大戦中、日本の上空を飛んだアメリカのパイロットが、100m/sにも及ぶ西風に遭遇し、

のちにシカゴ大学の大気循環研究グループによってジェット気流と名づけられた。

偏西風中にある幅数百キロメートル、厚さ数百メートルの特に風速の強い部分をいう。

ジェット気流の中心の平均緯度は、夏には北緯四十五〜五十度の高緯度で風速は比較的弱いが、

冬は北緯三十〜四十度に移動するとともに風速は強くなり、ときには100m/s以上となることもある。





古代熱気球


 以下引用文献、

ミロスラフ・スティングル著、佑学社発行「古代インカ文明の謎」より。


 (途中より)ナスカプロジェクトの生い立ちには、あの「ナスカ地上絵の疑問」があった。ウッドマンは、ナスカプロジェクトに二つの課題を与えた。

ひとつは、インディオがどんな飛行機を使ったかをつきとめ、その存在に対するあらゆる証拠を追跡すること、そして第二には、

それを復元してみせることである。第一の問いに対しては、思いがけない答えを見つけた。気球、熱した空気をつめた気球だというのである。

古い気球についての情報収集は国際探検家協会があたった。このナスカプロジェクトの重要な発見は、バルトロメオ・ローレンソ・デ・グスマンの飛行である。



グスマンは1685年ブラジルの町サントスで監獄医の息子として生まれる。サントスのイエズス会神父の手で教育を受けた。

若きグスマンは遠隔の地で宣教師活動にたずさわっていた。グスマンは、そうした教養ある人々のなかにあって、古代ペルーで使われていたと思われるインディオの

気球を真似てつくってみることを考える。グスマンは1709年8月8日、リスボンで国王に人間を空中に運び上げうる熱気球の建造を進言した。

しかも彼は、飛行船のミニモデルによる実験もやってみせた。このデモンストレーションに納得した国王は、必要な経費を提供することに応じた。

 デモンストレーションの成功から二ヵ月後の十月には、早くも本物の気球が完成した。気球には「ラ・パッサーラ」の名がつけられた。

ポルトガル語でスズメの意味である。スズメ号は実際にリスボン上空を何度も飛び、その都度1000メートル以上の距離を飛行したと伝えられる。

だが、キリスト教団からのねたみと謀略が、彼の人生に悲劇的転換をもたらした。ポルトガルを追われて隣国スペインに逃れた。

その後、彼はすべての人から忘れられたまま三十八歳の若さでトレドで死んだ。



 以後、熱気球のことも、ほとんど完全に忘却の彼方に追いやられた。ただ、グスマンの生まれ故郷の町だけが彼のことを忘れず、

郵便切手を二度発行して彼を偲んだ。1944年に発行された洋紅色の120クロゼイロ航空郵便切手には、彼の気球も描かれている。

その気球は、我々の概念からすれば奇妙な形のもので、頭の上にピラミッドが乗っかっているような形である。そして、まさにその形こそが

ナスカプロジェクトの追っていたあの古代ペルー人の気球と想定されるものの形でもあったのである。



 グスマンはそのスズメ号の気球部分に木綿を使った。ナスカプロジェクトのウッドマンらは、ナスカの織物を見つけ出すことにつとめた。

まもなくナスカ織布の見本六点(うち四点は出土品)を持って、世界最大の気球製造会社のある、サウスダコタ州のシォーフォールズに飛んだ。

 そこのラーヴェン社の実験室で行なわれたナスカ織布についての調査は、驚くべき結果をもたらした。

先ず、この世界最新鋭の会社では一平方センチあたり65本×35本の繊維の布で気球を作っているのに対し、

ナスカの木綿布では一平方センチあたり75本×40本の繊維があり、祭儀用ガウンに至っては80本×45本という緻密さを持っていたのである。



次に通気性もテストされた。測定の結果、今日パラシュートの製造に用いられている素材よりもさらに少ないことがわかった。測定結果を総合すると、

古代ナスカ人がつくりあげた類いの素材をもってすれば、飛行可能な熱気球をつくることが可能であることを証明したのである。

 国際探検家協会の研究者たちは、証明するために同じような気球をつくって、ナスカの上空を飛んでみようと決意した。

気球の製作は、あのナスカ織布の素材を徹底的にテストしたラーブェン社に依頼した。



 ゴンドラをつくったのは、チチカカ湖畔に定住するアイマラ・インディオである。トトラ編みで伝統的な小舟の型に仕上げた。

 でき上がった気球は、高さ25メートル、幅もやはり25メートルの木綿布製の巨大な逆三角形のものだった。

気球の下には、2人の乗組員のためのトトラ編みの長さ2・5メートル、高さ1・5メートルのゴンドラがあった。

 ナスカ砂漠の素描の上を飛ぼうとするこの「インディオのボート」には、ウッドマンともう1人、

当時の熱気球飛行の世界チャンピオン、イギリス人のジュリアン・ノットに決まった。

かって気球で一万三千九百八十メートルという高空に昇った男である。



 テスト飛行の発進地には、かってのナスカインディオの首都カワチの近くが選ばれた。実験者たちはまずこの地に火を燃やすための溝を掘った。

 一連の準備と小気球による試験飛行の後、ついに待望の日が訪れた。協力者たちが火を起こし、気球は次第に熱い空気に満たされた。

やがて二人を乗せた「インディオのボート」は、約百三十メートルの高みに達し、そこからナスカの素描画を見下ろした。

 逆三角形の「グスマン」型気球は、こうして実際にナスカ砂漠の上空にあがったのである。

乗組員の二人は不測の事態に備えてパラシュートを装備していたが、

気球は上昇したのと同様の確実さで下降に転じ、地上に戻った。



 この種の熱気球の特性についてラーヴェン社の技術者たちは実験者たちに格別の注意を促していた。「太陽効果」と呼ばれる特性で、

気球がナスカ砂漠のような広がった大地の上では、一定の高度(約千五百メートル)に達すると、高熱の太陽光線が気球の中の空気の冷却を防ぎ、

気球は太陽が輝いているかぎり昇りつづけ、冷気を含んだ夜が始まるまでのあいだ、どこまでも飛びつづけるというものである。

 そんなわけで、気球はできるだけ多くの太陽光線を吸収するように暗灰色ないし黒色に塗られているのが望ましかった。

実験に使われた気球は、リマの航空博物館に永久に展示されている。



「佑学社」発行の「古代インカ文明の謎」より簡略化して引用させていただきました。

著者の「ミロスラフ・スティングル」さんと「佑学社」さんに感謝します。




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