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 小郡賀茂神社

 平生町方面から室津半島を南下していきますと、佐賀の白鳥古墳を通り、黒羽根を過ぎて小郡(おぐに)です。

 小郡バス停の裏手に旧道路があります。車をその辺にとめ、田んぼの畦道を約百メートル程度入った小丘の上にあります。




画面真ん中の森に小郡賀茂神社があります。

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 小郡賀茂神社全景。 犬が下りて来ている所が参道です。

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 急傾斜の石段そのものが古代遺跡と言えそうな趣をしています。

外国ならすぐに古代遺跡として騒がれそうですが、日本には、あまりにも数が多くて、

そこ、ここに普通に在るものですから、遺跡すらにもなりません。憂うべきことです。

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 小郡賀茂神社

 防長風土注進案には「加茂大明神」と記してあり、建物の規模のみが記入してあるだけです。

 記録の加茂とある文字について、鳥居などにはすべて賀茂とあることから、

記録者の文字の使い勝手で加茂と記入したものと思われますが、あるいは、記録の通りに

加茂と書くのが日本本来の文字で、賀茂と書くのは新しい文字使いなのかもしれません。








 小郡賀茂神社の前面方向です。画面真ん中に見える白いバス停の向こう側は海です(下写真)。

神代の時代には、ここは入り江の様相をして、この田園の辺りは砂浜だったろうと思われます。

遠方に目をやりますと、上関や長島などが見えます。







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小郡賀茂神社・方位分析






小郡賀茂神社・所在地(境内で計測)

N 33度52分47.1

E 132度06分59.6

位置精度 +- 6m

拝礼方位 現状の計測値は 348度ですが、

諸々の補正を入れると 346度になります。



拝礼方位線




 大見山(鳩ヶ峰) この山を方位線の指標にしているらしく、右方位線の周防大島でも大見山を通ります(後述)

Aを過ぎた方位線は日向平丘陵を縦走して、からと水道の B 地点に到ります。

 柳井市新庄宮ノ下 古代に海上仏塔が建っていたと推測される地点。ここを通過する方位線は多くあります。

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 周東町・極楽寺    八幡宮    鮎原剣神社




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緑色のマーク地点・・二鹿鉱山(喜和田鉱山)・・正確に鉱山を指しています。


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日本海側に出て、益田市です。

 スクモ塚古墳(方位線から約 8キロ)

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小郡賀茂神社・社殿の前面方位線




緑色マーカー 八島の洲崎


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小郡賀茂神社・社殿に向かって右手方位線




 横見権現   嵩山九合目(岩屋権現)   日前・白鳥八幡宮   大見山   筏八幡宮


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愛媛県今治市です。緑色マーク地点に賀茂別雷神社と、妙見山古墳。


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香川県です。

Z 善通寺市・宮が尾古墳・王墓山古墳    綾歌町・陣の丸古墳・快天山古墳


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方位線の辺りで近年に銅鐸が発見されていると思います。


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大仙古墳・正確には大仙古墳の少し南側を通っています。

奈良では斑鳩の辺りを通過しています。

あんまり正確に考えても、根本が礎石の上に載せた柱です。


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三重県名張市の近くにある美旗古墳群と、式内・大村神社を通過しています。


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日本全図で大雑把に方位線を出してみました。

房総半島の九十九里浜へ到達しています。




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小郡賀茂神社・社殿に向かって左手方位線










築城と書いて『ついき』と呼んでいます。ストレートに読めば『ちくじょう』でもあります。

以後の方位線を見ると、とても意味の深い地名が上陸地点に置いてあることになります。

図のオレンジマーカーは、右側が御所ヶ谷神籠石、左側が鹿毛馬神籠石です。





大野城跡は日本書紀に記してある山城として知られています。

しかし、戦術としては、海から敵が攻めて来た時には水際でくい止めるのが普通です。

山のなかに逃げ込むようでは最初から負けです。そこらあたりからして不審点が多大な城跡です。

上図を見てもわかるように、大野城跡を意識している方位線は多くあります。年代が合いません。


大野城の記述は、日本書紀・天智天皇・四年秋八月に記してあります。

『 秋八月に達率答●春初を遣わして、城を長門国に築かせ、達率憶礼福留と、

達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野および椽の二城を築かせた。 』


大野城跡には百間石垣という長い石垣があります。昭和 48年の水害の復旧工事で城門の礎石が

発見されています。そのことは、日本書紀の記述よりも前からそういう遺跡があって、その遺跡を

再利用して大野城跡は築かれた、ということになります。すなわち、昔から存在していた遺跡とは、

神籠石遺跡であり、大宰府やその周辺の古くは綿花の生産で栄えていた、ということになります。






雷山神籠石です。






佐賀県唐津市鏡にある鏡山です。

鏡山は標高 283.6メートルの山で、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来します。

また、松浦佐用姫の伝説もあり、銅像も建っていたりして、そちらのほうが知名度が高いようです。


鏡山の南側に葉山尻支石墓群という縄文晩期から弥生時代にかけての支石墓群があります。

支石墓は西ヨーロッパが発祥地であり、フランスのブルターニュ地方に多く見られ、

石の机のような形をしているので『ドルメン』とも呼ばれているようです。






大野台支石墓群・長崎県佐世保市鹿町町深江

縄文晩期から弥生時代。




まとめ

神武侵攻地として見ますと、柳井市伊陸と、岩国市玖珂町を拝礼方位に置いている部分が重要です。

玖珂には鞍掛合戦千人塚という遺跡がありまして、香川正矩の書いた陰徳記という記録によりますと、

弘治元年( 1555 )大内勢と毛利勢との戦いで戦死した武士たちの墓ということになっています。


それを神代の時代にまで遡らせてみますと、二鹿鉱山との連係が出て来ます。銅の鉱石です。

二鹿の山中で採掘した鉱石を運び出すには二通りのルートがあります。1つは錦川を舟で下って

岩国市へ運び出すルート。もう 1つは、二鹿から山越えで南下して玖珂町に運び出すルートです。

つまり、玖珂や伊陸は採掘した鉱石の製錬所の役目をしていたと考えると、侵攻地のターゲットに

なった理由のナゾが解けます。



余談ですが、古代の二鹿鉱山は銅を採掘していたというのが一般的な考え方です。

ところが、実際には銅と共に、世界有数の灰重石(かいじゅうせき)タングステン鉱床

でもありました。銅や鉄が製錬できればタングステンも製錬できはしないだろうかと

考えてみたりもします。そう考える根拠は、くりぬき石棺にあります。花崗岩の塊を

バスタブのように綺麗にくりぬいています。タガネとハンマー程度では簡単ではないです。




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