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 侵攻の記録 足あとの神社群    

 第24番  束荷神社   光市大字束荷     
 参詣・撮影年月日 2012年1月8日  




 正面参道には3本の鳥居があります。最初の鳥居です。   

            

             束荷という地名の読みは「つかり」と読んでいます。「つかり神社」です。     

 防長風土注進案より  
 束荷村  當村之義名義申傳等も無之相知不申候事     

 山口縣風土誌より  
 束荷村  名義 不知。明徳四年十月五日の文書に束荷保と見ゆ。  




 2番目の鳥居です。   
 この鳥居は一の鳥居の日陰になっていますが、何か意味があるようです。重陽(後述)ですか?   
 鳥居の足になる柱が積み上げ方式になっています。ギリシャ神殿の柱と同じ方法です。    
 この神社の参道は長いのが特徴で、束荷平野を一直線に数百メートル貫いています。写真は北の方向に向いて撮影しています。    




 参道から右手方向(東南の方向)を見ますと、万葉の小倉の山があります。山をひとつ越えると小倉です。
 古来からの小倉峠を越える道は今も残っていて、私はその道を通って来ました。荒れているので車では少し無理です。




 一直線の参道を分断して一般道が通っています。     




 3番目の鳥居です。  
 この鳥居も足が積み上げ方式で組まれています。    






 この神社の由来は、やたらとややこしくなっています。その背景には明治時代の合祀があるわけですが・・・。  
 この由来板を見てもたぶん理解できる人は少ないだろうと思います。

 簡単に説明します。
 先ず古来より粟屋社という神社がありました。それがこの束荷神社の根本です。
 その粟屋社に明治時代になって束荷周辺の神社を合祀します。
 その合祀が今の束荷神社を形成しています。
 やがては束荷村出身の伊藤博文をも祭神として合祀します。

 ですから本来の根本は粟屋社です。  
 その粟屋社は石城山から祭神(オオヤマツミノミコト)をお招きして創建されています。   




 拝礼殿前の境内にて測定   
 北緯 34度00分31.0秒     
 東経 132度00分31.6秒    
 +− 5m       




 山口縣風土誌より (明治年中編纂)   
 粟屋神社
 (市、旧除高五年)意味不明 祭神大山祇命(オオヤマツミノミコト)。    
 平治元年(1159)三月本郡塩田村岩城神社より霊を分ち本村郷山に祀る。
 元和六年(1620)四月今の地に移転(慶宝寺本社の旧社坊なり)。



 防長風土注進案より (天保年中編纂)     
 束荷村  粟屋社     
 社傳、往昔人王七十八代二條帝御宇、平治元年(1159)當国式内岩城神社より此の地へ勧請。
 當郷山之麓宮奥という所。祭神は岩城神社中座に鎮まり給ふ大山祇命(オオヤマツミノミコト)なり。
 新たに宮柱太敷立て、蒼い稲草を以って神殿の甍(いらか)を葺く。名の謂れ蒼屋権現。   
 それより村里尊崇して産社(うぶしゃ)なり。
 毎年重陽(ちょうよう・陰暦九月九日(菊の節句)その日は陽の数である九が重なる日であるからいう)
 佳節(かせつ・めでたい日の意味)に神幸の式を営み奉幣祝詞怠り無し。
 人王九十八代崇光帝の観応二年辛卯(1351)文字を改め粟屋権現と云々。
 其の後遥年を経て元和六年甲辰四月(1620)御給地の節、御領主○○○○様御再建の棟札御座候に付き、(以下略す)    



 防長寺社由来より (享保年中編纂)  
 熊毛郡束荷村粟屋権現    
 往古元和六年庚申四月御給地の節、御領主○○○○様御再建立被り仰せ付かる通り、其節の棟札に相見え申し候。   
 同郡石城山権現勧請の由、先年より申し伝えに御座候。
 縁記等は無く御座候。追々修繕(原典・取繕)の節は棟札等も無く御座候事。



 拝礼方位 32度(拝礼殿計測)    

 拝礼方向 ⇒ 玖珂郡周東町・坊ヶ原・枡形山(345.4) ⇒ 玖珂天満宮 ⇒ 玖珂・鞍掛山の東側ふもと(古戦場跡) ⇒      

 社殿の前面方向 ⇒ 岩田・岩戸八幡宮・冠念寺(石押分の子の陵墓跡・鳥の地上絵) ⇒     

 社殿に向かって右手方向 ⇒ 小倉山・光照寺 ⇒ 佐田・山中稲荷 ⇒ 大波野涅槃像 ⇒ 柳井市高須・小烏神社 ⇒ 周防大島志佐・神宮神社 ⇒ 周防大島・頂海山(454.9)頂上 ⇒ 周防大島秋・若宮神社 ⇒      

 社殿に向かって左手方向 ⇒ 徳地堀 ⇒   




 束荷神社境内の右手方向(社殿に向かって右手)の丘の上に在る石祠です。   
 防長寺社由来には粟屋権現の由来と一緒にこの石祠の事だろうと思いますが、次のように付記してあります。

 一 社外に当村新市夷堂、往古、市の時分より御座候




 丸金のマークは金比羅さまだろうと思います。   
 蒼(青)と金比羅は一緒でなくてはなりませんから・・・。    
 そうすると、今まで男神と信じられて来たオオヤマツミノ神は「綿摘み」を意味して女神であるということになります。   
 ひいては石城神社の中座には「綿摘みの女王」がいらっしゃるということにもなりましょう。   
 その女王をお招きしたので蒼屋権現だったんですね。    




 境内の裏手にも鳥居があります。
 撮影者の背後は駐車場になっていて、数台は充分駐車できます。平日ならガラ空きです。    
 画面の左手方向に少し進みますと緑地公園のようになっています。   




 境内から見おろす一直線の参道です。   




 正面参道の最初の鳥居の脇にも駐車場があります。    
 束荷神社には伊藤博文の神霊が祀られています。
 伊藤博文の生家を見学された折にはぜひこちらにもご参詣ください。


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