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楯築遺跡
(国指定史跡)
所在地 岡山県倉敷市矢部字向山
N 34度39分47.6
E 133度49分31.7
位置精度 +- 3m
楯築弥生墳丘墓にて計測
カーナビも駐車場までは教えてくれないと思います。
楯築遺跡は道順がややこしいので、先に道案内をしておきます。
グーグルマップと照らし合わせてご検討ください。
山陽自動車道から岡山の主要遺跡を巡るなら、岡山インターで降りるよりも
倉敷インターで降りて国道429号線で行ったほうがわかり易いと思います。
上図を見てもわかるように429を挟んで両側に造山・作山古墳があります。
429をそのまま真っ直ぐ行けば鬼城山へ行けますし、そうした理由で
倉敷インターから降りたほうがわかり易いので、一応お勧めします。
では、楯築遺跡へ行きます。倉敷インターを降りて国道429を北上して行きます。
県道270号への入り口交差点は「国分寺西」です。もうひとつ国分寺口という交差点も
ありますから間違えないように気をつけてください。270号へ入って暫く走ると、山陽自動車道の
下をくぐります。くぐったら間もなく右折です、右折地点はグーグルマップを拡大して参照してください。
私は橋の手前の道を右折して川沿いを走りましたが、少し狭いのでご注意ください。
途中、黄ラインの近道を通ってみましたが、団地の中を通り、ややこしいです。
同じような道が多いです。ともすると現在地がわからなくなる恐れがあります。
そうした訳で、少し遠回りでも川沿いを進んで行く、赤ラインの道で行くことをお勧めします。
とにかく、丘を右手に見て進んで行けばいいです。
森に囲まれた丸い給水塔が写っている所が楯築遺跡です。
図の上の方を見てください。その道は行き止まりです。行き止まりまで行けばわかり易いかもしれません?
右へ登って行くと、すぐに「楯築遺跡駐車場」と書いた大きな看板が左側にあります。
黄色丸で囲んだ所が遺跡専用の駐車場です。
遺跡の入り口は赤丸の所です。そこから歩いて登って行きます。
この楯築遺跡は団地の中にあり、同じような道がたくさんあります。
初めて行く方は、道順がややこしいので、迷わないようにお気をつけください。
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現地写真撮影 2015-2/18
王墓の丘史跡公園
楯築遺跡のある王墓の丘史跡公園は大別して三つの地区に分かれています。
北側から順に、楯築地区、日畑赤井堂地区、王墓山地区、と並んでいます。
私は楯築に行く途中、いちばん南側の王墓山地区の古墳群に立ち寄ってみました。
墳墓のほとんどは大きな築石が地上に露出していて、圧巻でした。
王墓の丘史跡公園の周囲は団地造成が顕著で、古墳の築石のすぐ脇にまで家屋が進出しています。
航空写真を見ますと、団地造成するなら他にも良い場所は多くあるのに、なぜここにしたのだろうと
考えますと、古墳のある土地はどこも嫌われる傾向があります。地主の多くは、古墳の主の祟りなどを
恐れて、畑にすらできません。土地が売れる時に早く売り払ったほうがいい、という人が多いです。
そうしたことから、この王墓の丘周辺の土地も元々から売却の運命にあって、
そこに目を付けた不動産屋が買い占めて団地へと変貌したと推察されます。
目指す楯築弥生墳丘墓は、そんな団地に囲まれた丘の上にあります。
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楯築遺跡は上図のように前方部が両側に突出した双方中円墳です。
近隣で同じ形態を持つ古墳として、香川県の猫塚古墳があります。
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なぜ突出部を両側に造ったのかという理由に関しては、通称・神武東征と密接な関連があり、
高島にしても、吉備津神社・吉備津彦神社にしても、造山・作山古墳にしても、すべてが二つで成り立っています。
それは神武東征の、いわゆる侵攻ルートを表わしています。つまり、侵攻ルートを知る指標になっています。
これらは文字を持たない、あるいは、文字があっても通じないことの多かったであろう古代の歴史記録として
存在しているのです。香川県の陣の丸古墳を見れば明解です。双方向挟み撃ちの戦法を後世に伝え残そうとした
古代からの必死な訴えなのです。詳細は神武東征のページに載せることにして、楯築遺跡を見学してみましょう。
駐車場から少し登った所にある楯築遺跡への入り口です。
ここから視線を少し左側へと向けてみたのが下の写真です。
赤黄矢印の所に遺跡の立石が見えています。遺跡の立石ギリギリまで削り取られています。
この土手には本来楯築弥生墳丘墓の北東突出部があったのですが、団地造成によって失われてしまったようです。
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図の給水塔が南西突出部の真ん中になります。つまり、南西突出部を造成して給水塔が立っています。
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ここからは、楯築刊行会編纂の書籍「楯築弥生墳丘墓の研究」を参考にして話を進めることにします。
書籍を編纂された筆者や楯築刊行会の方々、発掘作業に従事された方々への労をねぎらうと共に感謝いたします。
引用記事はわかり易いように緑色で記載して書籍からの引用であることを明瞭にして本文と分別します。
位置・立地
楯築弥生墳丘墓は、岡山県倉敷市の東端、仕手倉山ー日差山山塊から東に派生した片岡山(かたおかやま)と
呼ばれる低平な丘陵の上にある。かってこの丘陵はなだらかな山並みをこまかく起伏させ、大字矢部(やべ)、
大字日畑(ひばた)、大字山手(やまて)の3者を分け隔てていた。1971年から72年にかけて住宅団地造成に伴う
遺跡の「発掘」が「倉敷市教育委員会の指導で・・・専門研究者をあて」て行われ、多くの遺跡、幾つかの古墳が
「発掘」後消滅するとともに、丘の相貌は一変し、緑の山並みの多くが消えた。楯築弥生墳丘墓は、この片岡山
丘陵の北端に近く、標高46.5m地点、丘陵のほぼ最高の位置を占めていたが、もはやその立地を鳥瞰できるのは、
団地造成以前の地形図と航空写真の中だけである。 (中略) 楯築弥生墳丘墓は、片岡山丘陵北よりの最高地点
の、北東から南西に伸びる約160mほどの長さの山並みのほぼ中央に、丘陵地形を巧みに利用して築かれていた。
破壊前の楯築弥生墳丘墓
(前文略) 北東の突出部は、宅地造成のため破壊され、いまではその名残りを一部にとどめているにすぎない。
もとは、あたかも前方部状の突出で、およそ10数メートルほどのびていた。その上面は幅約3、4メートルで、
わずかに前面に向って下降気味であったが、ほぼ平坦に近い。突出部の前面はかなり急な傾斜で2、3メートル
ほど下り、東西に走る小径に達していた。(中略)その小径の反対の側には自然丘の高まりがあり、東ないし
北東方向へ下降しながら伸びていた。
(中略) 墳丘を単に平面円形に作り出そうとしたのであれば、突出した尾根を切りとるのは容易であるが、
そうはしないで残して、しかも盛土して形をととのえていることは、突出部が当初から本遺構の形態の
一部として意図されたものであったことを示すものとみてよい。
同じように南西側にもかって細長い尾根状のものが約20数メートルにわたってのびていた。その尾根の
向こう側には低い高まりがあるが、その高まりと尾根の間は切断され、同じように小径が通っており、尾根
全体が細長い突出部のような観を呈していた。その南東側には平坦部が上下2段に存在し、北西側は
ゆるやかな傾斜をつくっていた。
尾根の上は、北西側寄りに、戦前の大演習の折、旧軍隊によって散兵濠が掘られたため、ややくずれて
変形していた。尾根の幅は推定数メートル、高さは2メートル内外ほどであったと記憶する。この尾根が、
後に明らかにされる南西突出部である。このように、楯築は北東と南西に顕著な突出部を備えた大形の
弥生墳丘墓であった。
給水塔の脇から墳丘全域を見たもの。墳丘の盛り上がりが低いのが印象的でした。
この給水塔が南西突出部の真ん中になるとのことです。
破壊される楯築弥生墳丘墓。
1972年暮れまたは1973年冬のことと思われる破壊は、両突出部に向けて行われた。
北東突出部は、その北および北東方向の丘陵とともに、団地敷地および法面として、
過半が破壊され消失した。破壊後まもない時期の観察では、削り取られた断面に盛り土が、
さらにその盛り土部の斜面に円礫の層が認められた。南西突出部については、先に尾根と
記した高まりの箇所のすべてが除去され、そのほぼ中央に径約10mの給水塔が1辺約
20mのフェンスを伴って築かれた。当時、削り取られた円丘部の付け根の断面には、向かって
左側に円礫の重なりと若干の特殊器台・特殊壷の小破片が認められた。
なぜこのような破壊が行われたのであろうか。
1972年10月11日、著者は団地造成事業の主体である株式会社○○信販の代表○○○○社長と
発掘の関係者などに現場で会い、南北二つの突出部も楯築遺跡の一部であることを説明し、その保存と
将来の調査を申し入れ善処を願った。代表者の○○○○社長は快く応諾した。さて、それに先立つ1971年
3月に、上記○○信販と岡山県教育委員会、倉敷市教育委員会の三者は、造成工事にともなう遺跡問題
について下記の内容の覚書をとりかわした。1・楯築神社周辺は、公園緑地として保存する。2・略。3・略。
4・発掘を要するものは、倉敷市教育委員会の指導で行い、発掘には専門研究者をあて、その経費は○○
信販が負担する。5・工事中の発見遺跡については、ただちに協議して、適宣の措置をとる。
つまり楯築弥生墳丘墓(その円形の主墳丘部が元楯築神社の跡地である)とその周辺は初めから公園緑地
として保存することになっていたのである。しかも、○○信販の社長は筆者の保存申し入れを応諾していたのである。
とすると、こう考えざるをえない。上記三者は、「楯築神社周辺」に初めから突出部を含めていなかった、と。
ということは、突出部は楯築神社(楯築弥生墳丘墓)と関係ないと考え、またそれが(したがっておそらくは円丘部も)
考古学上の遺跡であるという認識をもっていなかった、ということになる。筆者から話をきいて了解された○○信販
の○○社長も、三者で話し合われたそういう認識を覆すことはできなかったらしい。このようにして上記のような
破壊が行われたのである。しかも、上記覚書の5にある「工事中の発見遺跡」にも当たらなかったほど、
当事者達の観察と注意とは散漫かつ怠惰であったようである。
この楯築弥生墳丘墓を現状から保存するには、突出部のあった突き出し位置や
その方向性の位置を石板などに彫って現地で明確にしておけば問題無いと思います。
墳丘の南東側です。雑木の伐採作業が行われているようでした。見晴らしが良くなりそうです。
伐採した後に桜を植えるのが主流ですが、桜を植えると葉のつく夏期は展望が全然見えなくなります。
せっかくの展望が季節によって効かなくなるという意味で、桜などの高木を植えるのは考えものです。
私は歴史取材をする時、落葉する冬期に行うようにしています。そうしないと何にも見えないですから。
雑木を全部伐採したら、展望確保の意味で、つつじのような低木を植えたらいいと思います。
諸々の資料を基に、楯築弥生墳丘墓のおよその形状を描いてみました。
特徴的なのが、丸い墳丘の盛り上がりの高さが低いことです。
真横から見た形は、盛り上がりが少なく、実にスマートです。
発掘された埋葬施設を見ても築造当初からこの形状で造られています。
墳丘の上には衝立のような石が立っています。立石の並びは不規則でバラバラです。
現状の墳丘土の高さから見て、墳丘の表土が流失して古墳の内部築石が
露出したかのような印象を受けますが、この土の下に埋葬施設が
発掘されていますから、表土の流失などではないことがわかります。
第一に、石の並び方が不規則です。
これらの立石のほとんどは発掘調査や整備によって埋め替えられています。
そのことについては後述します。
白い給水塔が墳丘に近接して建っているのがおわかりいただけると思います。
その給水塔が古墳突出部の真ん中に位置しています。つまり、南西突出部の上に給水塔が建っています。
隣りに見える白い建物には弧帯石と呼ばれる石彫品が収納してあるそうです。そのことについても後述します。
墳丘の上には現状で確認できる大きな石が大別して8組あります。
その大別した8組の石を全部撮影しておきました。
それらの石がある地点は上図を参照してください。
お椀が割れて底部だけ残った様な感じの石。手水鉢にしては浅すぎます。
ここに薬草を置いて叩いたり磨り潰したりの利用なら丁度使えそうです。
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Aが臼としたら、これは杵か擂粉木(すりこぎ)をイメージしたような感じです。
手前の輪切りの石は小さいので築造当時からあったのかどうか不明。
5号立石 (上写真・B )
5号立石は、第3次発掘の折、中心主体の排水施設の上部に位置することが判明したため、
一時的に移動し、排水施設調査の後もとに戻した。石の全長は約2.4m、幅約7、80p、
厚さは約30pほどであるが、上に瘤ようのふくらみがある。南西方向に僅かに傾く。
(中略)掘り方はかならずしも判然とはしなかったが、推定を交えて述べれば、平面は約
60×80pのほぼ楕円形で、深さ約30〜40p。掘り方の底から一部側方にかけ、
灰色がかった褐色の砂質土が円礫若干を伴って置かれていたほか、立石下方側面や
円礫の一部に朱と思しい赤色とやや淡い紅色の顔料が付着していた。
排水施設と立石との関係について引用しておきます。
(途中より)排水施設のための地山掘削は、墓壙(墓穴のこと)掘削と並行して進められている。
発掘は、槨小口南西隅から南へ約2.4mの箇所で止めたが、排水施設はさらに
南ないし南東にのびて墳外にいたるものと思われる。溝を主とする排水施設は
おそらく木槨とほぼ同時に埋められていったと考えられるが、埋没後、墳頂の
盛り土、整形が行われ、最後に立石5が排水溝真上に立てられた。
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ゾウガメみたいな感じの石です。
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これは自然石が露出したのかなと思いましたが、ここの山は土山です。
鬼城山のように岩山ではないことを見ると、やはり何かの意味があると思いました。
下の写真は同じ石を撮影方向を移動して写したものです。
真っ二つに割ってあります。こうした真っ二つに割った石は何か意味があるらしく、
鬼城山の温羅石碑の谷側にもありますし、御所ヶ谷にもありました。
現代の石工技術はクサビを打ち込んで割りますが、これらにはクサビの痕跡が
まったくありません。そうすると、石切り鋸のような物を使うしかないです。
この石の意味を単純に推察すると、技術を誇っている、というような意味に受け取れます。
つまり、最初のAの石から連係させて読み解きますと、薬草を磨り潰して薬を作る技術に長けていた。
というふうに解読できるのです。推察の域は出ませんが、これらの石を意味として解くとそうなります。
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この石の向こう側(裏側)には石祠が祀ってあります(下写真)。
石祠は墳丘築造当初の物ではなく、この墳丘の葺石の石板を抜き取った物を使っているそうです。
墳丘の葺石に石板が使ってあるということは、他所の古墳は川原石みたいな自然石を葺石に使って
いることを見ても、この古墳の築造当時としては、かなり豪華な墳丘だったことが推察されます。
1号立石 (上写真・E )
1号立石は、地表に見える高さ約3.2m、幅約1.3m、厚さは地表近くで約70p、上方で約50〜60pである。
地下埋没部分はおそらく深さ1mをゆうに越えるであろうから、推定全長は4m数十p以上おそらく5mとなる。
いま南西方向に約18度ほど傾斜している。もっとも丈高く分厚い立石である。 (以下略)
この1号立石の発掘は底部を約30p程度掘ってみただけで、立石そのものは動かしてはいないそうです。
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これらの立石は本来、傾いて立っていた物を発掘調査時に垂直に建て替えています。
どのぐらい傾いていたかは、ほぼ正確に記録してあるようですから復元は可能です。
2号立石 (上写真・F )
2号立石は、発掘時南西方向に約60度倒れていた。移転して下方を発掘したが、明瞭な掘り方は
見つからず、弥生土器片とともに中世土器片や円礫などが各所から発見され、後世移動ないし
立て直しがあったことを示した。矢部および西山の古老によると、発掘開始時より数年前に方向を
約90度変えて立て直したということで、第2次発掘の折に両古老立会いの上で、もとに戻すように
立て変えた。その折の掘り方の輪郭は不明瞭であったが、深さは地表から約55pを測った。
しかるに、1921(大正10)年刊の「岡山県史蹟名勝天然記念物調査報告・第一」掲載の
永山卯三郎「第二・片岡山古蹟址」(楯築弥生墳丘墓のこと)の写真によると、発掘時に見たと同じ
位置にあり同じ方向に傾いていることが判明し、両古老の記憶違いであることが判ったので、
1989年再び立て直した。石は板状を呈し、最長約3.0m、幅は約1.8m、厚さは基部から上に約
40pー30pー20pと薄くなる。
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3号立石 (上写真・G )
3号立石は、同じく板状の石で、長さ約3.8m、最大幅2.9m、厚さは下方から上に約25pー10pと薄くなる。
この石は約50度の傾斜で北方へ傾いていたが、1989年8月に発掘ののち垂直に立て直された。
地下埋没部分は約1.1mである。掘り方は、第2次と第7次の2回の発掘で検討したが、全体がほぼ二段掘り
となっており、その中心に立石が据えられた。 (中略) 掘り方の内には遺物は見られなかったが、北方に
傾いた折の間隙には円礫と弥生土器小片が少量見られ、上層には中世土器小片も僅か認められた。
また墳頂円礫の一部は掘り方の近くまで認められた。
木々の落葉時期、この丘からの眺めは良く、上写真の方向に最上稲荷の鳥居がよく見えます(下写真矢印)。
この写真を見てもわかるように、この楯築弥生墳丘墓からは吉備平野が広く見渡せます。
よく見渡せることは、逆に言えば、ふもとの何処からもこの丘はよく見えることになります。
吉備で暮らす人々の象徴として存在していたのでしょう。それだけ大事な遺跡でもあった表れです。
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一見して富士山を連想する、ガレキのような感じで置かれている石です。
4号立石 (上写真・H )
4号立石は、いま大きな腰掛けのような恰好で幾分地表にめり込んで露われているが、もとは
左右のいずれかが地中に埋め込まれていたものと思われる。その場合、向かって右つまり厚みが
あり不整形な南東側が約5、60p程度に埋められたと想像される。石の現存最大長は約2.4m、
幅約1.5m、厚さは最大で6、70pを測る。向かって左側つまり北西側の一部は、後世割り取ら
れた痕を示しているかもしれない。
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立石の時期考定
これら墳頂立石については、吉備津宮縁起の一節に、吉備津彦命の軍勢が鬼ノ城の温羅と戦うべく「西方都宇郡片岡山に
出で石楯を築き云々」とある。しかし、実際の年代について明確で具体的な証拠がある訳ではない。円丘部頂のほぼ中央を
囲んでいる訳でもなく、中心主体をほぼ等距離に取り囲んで立っている訳でもない。なにか弥生時代の彫み込みがある訳
でもない。しかし推定の手掛かりが無いことはない。まず斜面列石との関連である。円丘部斜面列石なかんづく第1列石、
北東突出部第1・第2列石がこの弥生墳丘墓の時代のものであることは、長頸壺・特殊壺・特殊器台など弥生土器片の出土
状況との関連、とくに北東突出部東側第2列石に接して長頸壺のほぼ完形品が発見されたことによって明らかである。
あるいはまた、南西突出部先端の列石と特殊壺などの弥生土器との関係からも、同じことがいえる。これらの列石の内、
円丘部第1列石の大形石はすでに述べたように長さ約2mに達するものを含んでいる。大形の石を墳丘斜面に配することと、
さらに大きな石を墳頂に立てることとは共通した考えに基づく行為であろう。円丘部第2列石がさらに小形の石による石垣、
あるいは石垣と小形の列石の混用と考える立場からすれば、墳丘の下方から小形、大形、巨大という石の使い方は偶然
とはいえないであろう。しかも、厳密に円丘中央や中心主体を囲んでいる訳ではないとしても、1号立石の辺りを取り囲むように
立てられている。 3号立石と5号立石の掘り方の埋め土には、中世土器片も弥生土器片も見られなかった(傾きに伴って
生じた3号立石の間隙には弥生土器片、僅かな中世土器片が見られた)が、5号立石の埋め土の一部にはすでに述べたように
円礫が見られ、さらに朱と思しい赤色とやや淡い紅色の顔料が立石下側方と円礫の一部に認められている。楯築には中世に
小穴が幾つか掘られているが、そのうちのどれ一つとして朱色や紅色の顔料は見られない。一方、後に述べるように、中心主体
には30kgを越える夥しい量の朱が、第2主体にも微量とはいえ朱と紅色の顔料が見られた。朱ないし紅色の顔料を媒介として、
5号立石と埋葬主体とは結びつく蓋然性が高い。さらにこれら立石が弥生時代以後のある時代に立てられたという証拠が
間接的にもまったく無いことも、以上の推定の蓋然性をいっそう高めるものである。このように筆者はこれら立石を
楯築弥生墳丘墓に伴うものと考える。
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楯築弥生墳丘墓から遠望しますと、二連の屋根を持つ吉備津神社がよく見えます。
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御神体の弧帯石について。
給水塔の横に建てられている白い堂宇の中に弧帯石と呼ばれる楯築神社の御神体が収納して
あるそうです。厳重に施錠され、特別な重要物であることが雰囲気としても察せられます。
弧状をなす帯の模様という意味で弧帯石と名付けられており、その石の模様を弧帯文(こたいもん)
と名付けられています。弧帯石の箱状の物は、ゲームで使うリモコン箱になんとなく似ています。
弧帯石は「亀石」と呼ばれることが多いようですが、全体の形は亀にはあまり似ておらず、
形としての亀ではなく、弧帯石の模様が亀の甲羅の模様(年輪)に似ているということのようです。
古来は何と呼ばれていたのだろうと調べますと、江戸時代の縁起には「白頂馬龍神石」
(はくちょうばりゅうじんせき)とあります。その名が極めて重要です(後述)。
楯築弥生墳丘墓が占める円丘は、もと楯築神社の社域である。といっても神社自体は、1909年(明治42)
に大字矢部にある鯉喰神社(こいくい)に合祀され、社殿は解体されていた。ご神体の石彫品も一旦
鯉喰神社に移されたが、故あって1916年(大正5)に戻ることになった。納める場所に窮した村人は、
神道系宗教団体○○○○の援助を受け、社域中央よりやや北に石の祠を作り、そこに納めた。
大字日畑の西山の人々は、合祀以前と同じように氏神として、ご神体を敬愛し続けて今日に至っている。
これらの模様デザインは何をモチーフにしたかということは、本来の名を考えればすぐにわかります。
本来の名は、白頂馬龍神石です。この名の意味を考えますと、以下のようになります。
鬼城山などの神籠石系は綿花を主体に栽培生産されていました。綿花ですから「白い頂き」です。
そして神籠石の列石(柵)をふもとから見ると、山を龍が舞っているように見えます。龍神です。
「白い頂きば龍神居し」と、なります。「馬」は九州方言です。使用例として、たとえば「何々ばする」
というような話し方の方言です。綿花栽培を教示するために本場の九州から来ていたのでしょう。
交流があったことは、古墳の石棺などが九州の石材を使われていることからも明確になります。
そこまでわかれば、弧帯石の線刻模様が何を意味しているのかは明確になります。
下の写真を見てください。これは羊毛ですが、綿花の綿糸も同じことです。
すなわち弧帯石は、綿花を糸に紡いだ状態をモチーフにして彫られているのです。
吉備国の収入源だったでしょうから、有り難い物だということで御神体にされたのでしょう。
弧帯石が他の神籠石地域で見られないのも、吉備国のオリジナリティーだと思えば今も同じです。
しかし、そうした繁栄も外国からの侵略によって壊されてしまいます。温羅伝説がそうですね。
綿花の樹園(農園)として存在していた鬼城山も、やがては侵略者たちの居城としての機能を負わされます。
破壊された弧帯石があるということについては、それも侵略と密接に関連していると思います。
縦分割文様帯と弧帯石 (途中より)
これがいつの頃からご神体となり、もと何処に置かれていたかについては定かではないが、
この墳丘墓に所属したものであることは小形の類似品が第3次発掘で中心埋葬上方円礫堆
から破壊された状態で発見されたことによって明らかである。筆者等はこれらに対し弧帯石と
名付け、大をご神体ないし伝世弧帯石、小を出土弧帯石ないし小形弧帯石と呼んで区別した。
楯築弥生墳丘墓出土の弧帯石のX線回析
与えられた楯築弥生墳丘墓出土弧帯石の試料について、X線回析法による鉱物同定を行った結果、
石材は、紅柱石、石英、カオリン、の混合であり、ほかに少量のパイロフィライトを含むことが判明した。
このような鉱物組み合わせはいわゆる「蝋石(ろうせき)」の特殊なもので、紅柱石質蝋石であろう。
同遺跡内の小祀のご神体に使われている石材も同種のものである。
紅柱石質蝋石は岡山県鴨方町杉谷、建部町上建部、広島県熊野町、庄原市勝光山などの産地が知られ、
そのほか兵庫県、京都府、山口県にも産地があり、とくに珍しいものではないが、一般の岩石とは異なって
いて、楯築の弧帯石の具体的な産地も将来決定される可能性もある。なお、紅柱石という鉱物そのものは
さらに産地が多く、楯築の西方の山中(日差山南方)にも少量産する。しかし、同地の石は共生鉱物も
異なっているので、使用された石材と同一とは考え難い。
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傾きを伴う立石
楯築弥生墳丘墓の立石は整備以前には傾いて立っていたことは、発掘資料によってわかりました。
周防の遺跡と合わせて考えると、楯築弥生墳丘墓の立石は築造当初から傾けて立てられた可能性があります。
特に3号立石(写真-G)などは地中に1.1mの深さで埋めてあったということで、よほどのことがない限り
自然に傾くということは考えられません。傾けて立てることの意味は明確にはなりませんが、推測すると、
侵略されたことの廃墟を表現したかったのではないかと思います。以下に周防の立石を載せておきます。
田布施町・波野行者山(波野スフィンクス)頂上にある立石。掲載ページはこちら。
光市小周防の有飯八幡宮の御神体石。掲載ページはこちら。
光市の岩戸八幡宮の岩戸石。掲載ページはこちら。
後ろの木は何年か前にはありませんでした。これも傾けて立ててあります。
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以上、緑色の文字の記事は楯築刊行会発行の「楯築弥生墳丘墓の研究」より引用させていただきました。
調査・執筆に従事された方々の労をねぎらうと共に感謝します。
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