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二鹿鉱山跡

二鹿という地名は「ふたしか」といいます。
そこにはつい近年まで操業していた喜和田鉱山跡があります。
その喜和田鉱山の古称を二鹿鉱山と言って、どちらも同じ所です。
歴史的には古い露天掘りの跡などが残っているそうです。
露天掘りというのは、地面の上から掘り下げていく採掘方法です。
明るくて上が崩れる心配もないので、古くは露天掘りが主流だったようです。
ただ、山の上からならいいのですが、谷間だと水が溜まってくるので、
井戸掘り形式だと排水が難しいという欠点があります。

二鹿鉱山では昔には銅を採掘していたそうです。しかし、森大三角でも
研究しましたように、銅の鉱石とするには少し不自然な面がありまして、
銅の採掘は中世の話であり、はるか古代には灰重石(タングステン)を
知っていたのではないかと思える部分が出てきます。と申しますのも、
エジプトの王墓の壁画にタングステン鉱石を探しているのではと思える
壁画があり、ライトのような物を照らしています。そのライトこそ紫外線を
照射して灰重石を探し出すための道具だったのではないでしょうか?
だからこそ森大三角のスターシャフトの線が二鹿鉱山跡を指しているのです。


では、ここでタングステン鉱石と、その採掘方法がどういう物であるかを見てみましょう。
写真は京都市在住のM・Y様より提供していただきました。ありがとうございます。




タングステン鉱石は主に石英脈の周囲に出来ます。
上の画面で白い帯状になっているのが石英脈です。
よって、タングステン鉱石は先ず石英脈があることが基本になります。
さらにタングステン鉱石は紫外線を照射すると青く光り輝く性質を持っています。
上の写真の岩に紫外線を照射したのが下の写真です。



青色に見えているのがタングステン鉱石です。
黒い帯状になっているのが石英脈です。
石英脈に沿ってあたかも怪獣の牙のごとくタングステン鉱石が出来ています。
灰重石と書いて、なぜ「かいじゅうせき」と読むのかの意味が見えてきます。

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上の写真は通常の光で見えている色。下の写真が同じ所に紫外線を照射したものです。
通常の光ではわかり難かったタングステン鉱石が紫外線をあてることによって含有量が鮮明にわかります。




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桃色に光る細長い鉱物はリン灰石。  赤むらさき色に光っているのは方解石。

二鹿には血の池の由来がありますが、紫外線を照射した石を見ると、まさに血が付着しているように見えます。

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タングステンの採掘は石英脈に沿って掘り進むので、
上の写真のように、鉱体の内部では石英脈まかせの採掘です。

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現代の採掘の内部を簡単な図にしてみました。




図は山の内部です。鉱石を多く含む鉱体Cがあるとしますと、
坑道Aは直接に鉱体には当てず、鉱体Cの真下に掘り進みます。
そして縦坑Bを掘って、鉱体Cで発破した鉱石を縦坑Bの穴にかぐり落とします。
縦坑Bを伝わって落とされた鉱石は下で待ち受けるトロッコに入ります。
こうして見ると、ピラミッドの内部構造とよく似ていることに気づきます。

下の写真は坑道Aに相当する所です。




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対する昔の採掘方法は下の図のように地表面から掘り下げていく露天掘りです。
喜和田鉱山付近には昔の露天掘りの跡がいくつもあるそうです。
鉱体が地表に近ければこの方法が良いですが、鉱体が深い所にあると難しいです。




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採掘で掘り進むのはダイナマイトなどの火薬を使います。
トンネルの先端部に削岩機やドリルなどで20〜30本の穴を開け、
その穴に火薬を詰めて爆破します。爆破したら粉塵の収まる翌日まで
待って作業をします。1回の発破で約10トン程度採れるそうです。
掘り進める長さは1日に約1m。費用は1mで約百万円だそうです。

こうした作業は我々が推測するかぎり、多くの人数でやるように
思いますが、実際には中に入って作業するのは驚くほど
少人数です。私が聞いたかぎり1人ということでした。
運び出してからの作業が多いのでしょう。


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鉱車と呼ばれるトロッコです。
バッテリーカーで引っ張ります。

古代には、たぶん牛が使われたと思います。由来に牛の由来があります(後述)。
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グランビーカーと呼ばれています。
転輪が台形のガイドレールを上がって荷台を傾け、
積んで出た鉱石を自動的におろします。
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ローダーと呼ばれています。
前のバケットで鉱石をすくい上げて、後ろに連結した鉱車(トロッコ)に積み込みます。
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以下、享和年中編纂の玖珂郡志「二鹿村」より部分引用。

昔、鬼神と云へる者住居せり。身長、大鬚(ひげ)すさまじく生えて、忿怒(ふんぬ)するときは、
(こう・合わせ祭ること)をも、ヒゲ通りけると也。世俗の人家を離れ、外の家屋一宇もなき幽谷なれば、
樵夫(しょうふ・きこりのこと)等、時々これを見て、鬼神或は山姥など名のりけしより、諸人このところを
鬼神谷と云ふ。今にても鬼神の子孫と云ふ。家は下鬼神谷藤原に乙次郎と云者なり。今深山に住する者は無し。
鬚屋敷とて、鬼神の住みし屋敷跡は、ユルフタキと云ふ谷口にあり。女子ヅリは二鹿にも味噌谷にもあり。
代々美目よき生まれつくの由。鬼神は乱世の時の落人なりしや?。それとも変化(へんげ)なりしや?不分明。


その他、気になる部分を抜粋してみます。

●安永八年六月廿三日夜半、太鼓の音聞こゆ、是祭日カワル之故也。

●二鹿キワダニ(喜和田に)、聖徳太子と云ふる所あり。いかなる故に称し来れるや、知る人無し。

●キワダ銅山。寛文九年十一月出来。大坂村上善庵、備中副谷、石州の者召し寄せ御掘らせ被る。
寛政年中再び掘りける也。  ●文化八九年、大坂辰巳屋より掘りに来る。

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これらの由来を見て、鬼神とは外国人を言っているものと思われます。
その証拠に「美目よき生まれつく」つまり、目が綺麗だという意味です。
日本・エジプト直結大三角からスターシャフトの線を出しますと、
西がスゥエーデンやノルウェーに到達し、東はロシアです。

「ユルフタキ」とは、露天掘りを意味しており、漢字で表すと「揺れる滝」という意味です。
揺れるとは、発破作業のこと。滝とは、露天掘りを意味しています。
山の斜面に火薬で発破をかけますと、あたかも滝のごとく石が崩れ落ちるところから
滝という表現になったのでしょう。その一例として、美祢市長登(ながのぼり)銅山遺跡でも
「瀧の下」と呼ばれている所があります。穴を掘っての採掘ではなく、斜面を破砕しての露天掘りです。

「女子ズリ」とは、「おなごずり」と読んで、「ズリ」とは採掘した時に出る不要な
石を捨てる所を意味しています。たいがいは谷間に捨てて谷を埋めていきます。

喜和田鉱山の辺りに「聖徳太子」と呼ばれる地名があるようです。
古代の鉱石採掘のリーダー的役割を果たしていたものと思われます。


そのほか、二鹿にはこんな由来もあります。

「煙霞騎縷」に云。本宮山と云ふ所に深き淵あり。享保年中、六左エ門という者、この所に
年魚(あゆ)を捕らんとせしに、淵の中より黄牛涌出し、角を振り立て、吽々と吼えて出しが、
忽ち発熱し、譫語(たわごと)など喋りて、三日目に相果てたり。深き淵より大蛇にても出べきに
牛の出たるは奇事也。淵の主霊なるべし。


この由来などは、鉱石の搬出に牛が使われたことを意味しています。


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では、喜和田鉱山跡の現状を載せておきます。
写真はは2009年9月に撮影したものです。





上図のいちばん右側に喜和田鉱山。
右から二番目に鉱石資料館跡(事務所跡)があります。
ここまでの道は、二鹿トンネルを通るのが国道187号線からの一般的な道です。
私は、いつも上図で左側の高森方面から仏峠を越えて来ますが、そちらは道が狭いです。
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鉱石資料館跡への道中に下の写真の石碑が建っています。
冒頭の案内地図では、いちばん右側に細い分枝点がありますが、そこです。








途中に操業していた当時の鉱山事務所の看板が残っていました。
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事務所跡です。
近年まで鉱石の展示や販売などをする鉱石資料館として存在していましたが、今は閉鎖されています。








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こんどは鉱山跡の方へ行ってみます。




林道を通って鉱山跡入り口に着きました。ガッチリとゲートで閉鎖されていました。

上写真の林道は数キロ先(片道約8キロ)で行き止まりです。
かなり荒れて河原状態の所もありますから、車では入らないほうがいいと思います。








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ふたたび鉱石資料館跡です。
操業当時に使われていた鉱車が残してありました。




ローダー
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バッテリーカー
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ローダーが牽引している鉱車(トロッコ)
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帰りに二鹿の集落を遠望。
以上、2009年9月撮影分です。
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以下の写真は2011年2月に撮影(特に変わりはありません)。




昔の人は鉱脈を探すのに金山草(かなやまそう)というシダ科の植物を見て探したそうです。
写真は鉱山事務所跡へ行く道にて、ここにも生えていました。
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まっすぐ進むと鉱石資料館跡。 右へ進むと鉱山入り口跡です。
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2011年2月撮影。鉱石資料館跡です。
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二鹿の風景。
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二鹿の風景。
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二鹿の風景。 常善寺の桜。
2011年4月13日・撮影。
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喜和田鉱山が閉鎖される直前に撮影されたDVDです。
採掘の様子がよくわかります。
通販されていますので、興味のある方はどうぞ。






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