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長登(ながのぼり)銅山跡を訪ねて
長登銅山跡・所在地・山口県美祢市美東町長登
訪ねた日時 2010-4/8 木曜 快晴
(土井ヶ浜遺跡からの続きです)
土井ヶ浜遺跡を訪ねた私がなぜ長登(ながのぼり)銅山跡に向かったのかと申しますと、
岩国市岩国の椎尾八幡宮の社殿の前面方位が、長登銅山跡と土井ヶ浜遺跡を指し示しているからです。
その方位線は秋吉台付近を通過するわけですが、そこには日本最古といわれている銅山跡が
数多く在ります。それらの銅山跡で代表的なのが長登銅山跡です。
長登銅山といえば奈良の東大寺大仏の制作に長登銅山の銅が使われたことで知られています。
しかし、奈良から長登までは今でも相当な距離があります。なぜわざわざこの遠い銅山から運んだのか、
ほかにも近くて良い銅山はたくさん在ります。何か繋がっているものがある、と直感しました。
さらに建久六年(1195)大仏殿修復の時、山口県徳地の木材が使われています。
今でも南大門に残っているそうです。その事にしても山口県の遠い地方から木材を運ばなくとも
奈良の近くには良い木材を産出している所はたくさんあります。
椎尾八幡宮の方位線にはそれらの地域がすべて方位線上に並んでいます。
その方位線通過地点を書いてみます。
椎尾八幡宮の方位線
社殿前面方位 ⇒ 岩屋観音(美川町根笠) ⇒ 都濃郡鹿野下 ⇒ 佐波郡徳地町 ⇒ 長登銅山跡 ⇒ 土井ヶ浜遺跡(豊北町)
拝礼方位97度で、社殿前面はピタリと長登と土井ヶ浜を指し示しています。
また方位線の途中にある岩屋観音周辺にも多くの鉱山跡があります。
こうした事実を見ても、東大寺の大仏と土井ヶ浜は繋がりがあると考えられます。
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秋吉台の東側にある国道490号線から入ります。
上の写真は国道からの入り口です。
ここを見つければ、あとは案内板が要所にあります。
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駐車場はこの広さですから大丈夫です。
車の向こう側の建物が「長登銅山文化交流館」(資料館)です。
古代の坑口まで行ってみたいと相談すると丁寧に教えてくださいました。
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銅の製錬を体験することができます。
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高さ約数十センチ位。
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鋳造体験場の前にある道を歩いて登りました。
車でも行けますが、この道です。
2010年4月、右手に新しい道を工事中でした。
矢印の山を「榧ヶ葉山」と申しまして、これから登る古代坑口のある山です。
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こうして見ると随分距離がありそうですが、
文化交流館駐車場から歩いて約15分位でした。
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「大切谷には、広さ5haにわたって銅の製錬カス(からみ)が堆積していて、
8世紀初頭から200年以上に渡って国の採銅所、製銅所として機能して
いたことを物語っています。この付近一帯の地下には多くの銅・鉛の製錬炉や
選鉱場、役所の建物や工人達の住居跡などが埋もれていると推定されます。」
(文化交流館パンフレットより引用)
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防長風土注進案より
「花の山」
「右此山銀山にて往古大盛のせつ山子千人も相働きたる由
今以千人まぶと申大なる窪有之候、此まぶ崩れ落山子の者
多人数埋れて即死せり、其妻女尼となりて其邊へ庵室を構へ
夫の菩提をとひたる所を尼所といふ、今に其地名残れり。」
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私見
古記録によりますと、この辺は銅だけでなく、銀も産出していたようです。
長登地域で銀を産出していた山を古記録から挙げてみますと、
『つづらが葉山』 『尻なし山』 『北平山』 『横野山』 『花の山』
これらの山はすべて銀を産出していたことが記録に見えます。
特に、花の山は今の製錬所跡がある所です。
しかし銅の産出が主体になっています。
極秘にされていたのだろうと思います。
そもそも、銅の緑青で作った絵の具の顔料でそんなに儲かるでしょうか?・・・・・。
上の写真の『千人間歩』にしても、千人も生き埋めになったと言えば誰も掘りません。
たぶん、当時、銀を掘りたくとも湧水でストップしていたのでしょう。
だから千人も生き埋めになっていると伝えて、掘らないように恐れをかけていたのだと思います。
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大切竪坑跡の脇にある休憩所で一服。
向こうに見えている大きな窪みが大切竪坑跡です。
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古代坑口への登りです。
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瀧ノ下の斜面にたくさん開いている坑口と謂われている穴の1つです。
現状の開口部は一辺50センチ程度で、とても入れる穴ではありません。
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これも瀧の下の斜面に多くある坑口と呼ばれている穴の1つです。
斜面上の石が崩れ込んで坑口を塞ぎ、狸穴になっています。
これらは、いずれも内部でつながっていて、鍾乳洞の様相をしている坑道もあるそうです。
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瀧ノ下の斜面です。
こんな険しい所でも坑口が30箇所位あるそうです。山全体が内部で蟻の巣状になっているとのことです。
見学して私の感じたこととして、瀧(たき)という名からして、爆薬を使って山の斜面を破砕していた可能性。
坑口と呼ばれている穴は、破砕によって露出した鍾乳洞のような自然の洞窟ではないでしょうか。
だから瀧の下という名で呼ばれています。
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今は段々が造ってあるから登れるんですが、段々が無かったらとても登れるような所ではありません。
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唯一、内部に入れる大切四号坑口です。 人が立ったまま入れる位の開口部です。
内部を見ると、坑道が自然体の様相をしていて、これは本当に人間が掘ったのかな?という印象が強かったです。
ちなみに、私は以前、海岸の岩や自分宅の庭石で手水鉢を彫ってみようと試みたことがあります。
手水鉢ですから、深さ約 20センチ程度の穴を彫ればいいのです。 1週間コッチンコッチンやってみました。
途中で矛盾を感じて放棄しました(笑)。私の言いたいことは、岩に穴を掘るのはそのぐらい難儀するのです。
岩山に、こんな大きな穴を開けるには、ノミとカナヅチなどでは困難です。さらに、岩は重いです。
直径 30センチ程度の岩塊でも抱えられるかどうか、というほど重いのです。
そうした訳もあり、この坑口と呼ばれている洞穴は斜面破砕によって露出した自然の鍾乳洞だと思います。
その鍾乳洞を利用して、中に入って採掘していたのだろうと思います。
昔の人は鉱脈を見つけるのに金山草(かなやまそう)というシダ科の植物で判断します。
その金山草は金気(かなけ)のある所に生えるという、ちょっと変わった植物です。
金気のある所ならどこにでも生えるらしく、私が農業機械の廃棄エンジンを畑の脇に
何年も放置していましたところ、知らない間にそのエンジンの周りに生えていました。
そういう性質を持つ植物ですから、金山草の群生している所を探せば何かの金気(鉱脈)が
あることになります。そこの岩場を表面掘削採集分析したうえで、さらに地質学とを照らし合わせて
何の鉱脈がどのくらいの規模で眠っているかを予測するようです。
では、古代の採掘方法はどうやっていたのかと調べてみますと、露天掘りという方法です。
資源の眠っている山を見つけ出し、上から広く彫り込んでいく方法です。
それだと灯火は要りませんし、ガスも溜まりません。その露天掘りの跡は各所に残っています。
今回は行けませんでしたが、この榧ヶ葉山の頂上付近には古代の露天掘りの跡が残っているそうです。
また、そのほかの鉱山の場合も周辺に古代の露天掘りの跡が残っています。
ただひとつ、露天掘りには致命的な欠点がありまして、水抜きをよくしておかないと、
雨水や湧水などで池になってしまうのです。水中ポンプなど無かった古代には最大の難関だったようです。
つまり、掘り進むのと並行して水抜きの溝なども掘り進む必要があります。ところが、山といえども
広い場所ですと、水抜きの溝も穴の深さと合わせて掘る必要がある大工事になってしまいます。
おのずと露天掘りは浅め浅めで広く掘るか、又は山の上から山全体を削っていく、という方法になります。
山の上から掘り下げていく方法は、水の問題さえ無ければ合理的な方法ですが、資源が深い所にありますと、
資源に到達するまでが大変です。そこで、山の側面から削っていくわけです。それはトンネル工法ではなく、
山の側面を破砕していく方法です。破砕するのに何を使ったかと言いますと、火薬です。
昔に火薬があったことは古記録に爆竹が出てくることから証明されます。
防長風土注進案より途中のみ引用 ~ドンドは爆竹をおしなへていふ、~ とあります。
爆竹があれば、岩石を粉砕する火薬もあるはずです。
山の斜面に爆薬を設置して爆発させれば、粉砕された岩石は瀧(たき)のように落ちます。
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防長風土注進案より
長登村
當村は金山所にて往古奈良の都大佛を鋳させらるる時大佛鋳立の地金として當地の銅二百余駄貫
かしめらる其恩賞として奈良登の地名を賜り、其比天領にて御制札にも奈良登銅山村とありし由言傳ふ、
いつしか奈良を長と唱へ替たる訳詳らかならず、さて亦郷村御帳に當村の高七千二百六十七石壹斗五升九合
とあり、家並も昔しは千軒に及びしところ、當時田畠高二百石余、家数三十軒余となり古今雲泥の違ひ也。
因曰、往古は高七千石余もありたるは田畠の高にてはあるまし、定おきしかな山繁昌の時惣山地下請にして
山役石貫相納、外に御運上とては被らず召し取る成べし、其ゆへは當時田畠にはさほどの荒所も見へざるゆへなり。
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長登銅山跡資料館パンフレットより引用
(途中より)~長登には、「その昔、奈良の大仏の銅を献上したので、奈良登がなまって長登(ながのぼり)になった。」
という地名伝説がかたり伝えられていました。しかし、古代の古文書に長登銅山を示す資料は全く見当たらず、信憑性の
ない伝説として長い間見過ごされてきました。ところが、昭和47年9月美東町史編纂の調査で、長登字大切の山中から
数片の須恵器が採集され、長登銅山跡が古代に遡る日本最古の銅山であることが判明しました。また、昭和63年には、
奈良東大寺大仏殿西隣の発掘調査が実施され、この時出土した青銅塊の化学分析の結果、奈良の大仏創建時の料銅は
長登銅山産であった事が明らかとなり、長登に残る伝説が真実であったことが実証されました。東大寺正倉院に残る古文書
には、長門国司から26.474斤もの大量の銅が東大寺に送られた記録があります。これが大仏鋳造用で長登銅山産出のものと
考えられています。26.400斤は今の約18㌧に相当します。これは1回分の船積みの量であり、長登からは数回送付されたと推察できます。
なお、平成15年7月には、大切谷を中心とした約35万4千㎡が古代鉱山遺跡として、国内で初めて国の史跡に指定されました。
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私見
土井ヶ浜遺跡のページでも書きましたが、
土井ヶ浜には古来より国をあげて出向祭祀してきたものの、あまりにも遠い距離です。
行こうとする人がいなくなったのでしょう。それなら先代の地の産出物で大仏を作って供養しよう、
ということになったのだと思います。万葉集にはそうした心情を伝えている歌が多くあります。
初代の地、先祖の眠る地へ出向祭祀することは国家的な行事でもあったろうものを、
祭祀に終止符を打たなければならなかった果ての大仏が見えてくるのです。
大仏の開眼師をはるばる天竺(インド)から招いたという事実も、
羯磨(かつま・神名オオモノヌシノカミ)と、おおいに関連性があることです。
見えている建物は長登銅山の資料館です。
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