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 大物主伝説の川を下る   

 丹塗り矢になって川を流れ下り結婚したという美和の大物主伝説の川をたどってみました。
 物語の内容は三輪神社の章に載せましたので、ここでは伝説の川を下ってみることにします。
 結果として、この伝説の川は多くの墳墓群の真っただ中を流れていき、やがては2人の女神の陵墓にたどり着くことです。
 実在の地に神話物語を編んで絡ませ、神々の地を明確化しています。   







 では金比羅山のふもとをスタートします。
 草に隠れて見えませんが右手に川が流れています。画面の向こう側が下流方向です。    

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 スタートして約 200メートルの辺りに猿田彦太神の石碑があります。上下 2枚の写真のみ 2007年撮影です。




 猿田彦太神は、川に堰をかけて三輪神社のあるコンピラ山を見上げています。

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 「市」という所です。スタート地点から丁度1キロの距離は偶然でしょうか? 
 画面の左側に県道23号線が走っています。画面の向こう側が下流方向です。

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 「前原」という所です。
 県道23号から脇道に入った橋の上で撮影しました。
 画面右側の竹やぶの中を山陽本線が通っています。画面の向こう側が下流方向です。   

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 城南(じょうなん)の「瓜迫」という所です。画面の向こう側が下流方向です。  

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 県道から入って、新しく出来た橋の上で撮影してみました。スタートしてから3.2キロ地点です。   
 この狭い谷間を県道23号と山陽本線も通っており、どちらも後井古墳のすぐ下を通っています。   
 画面には入っていませんが、国森古墳は石走山古墳群の丘の向こう側に位置しています。画面では矢印の向こう側くらいの位置です。
 後井・石走の両古墳が川の脇に在るのに比較して、国森古墳はほんの数百メートル程度ですが、本川から少し離れています。
 しかし本川に合流する支流が古墳近くにありますから川はあります。  画面の向こう側が下流方向です。

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 画面の黄色いガードレールが県道23号線です。  
 画面には入っていませんが竹部稲荷山古墳は左側真横方向にあります。画面の向こう側が下流方向です。

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 長田(おさだ)という所です。
 歴代天皇の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」の序文に譯田(おさだ)として登場します。  
 画面の向こう側が下流方向です。

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 桜のシーズンは撮影時です。画面の向こう側が下流方向です。

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 南東側を遠望。画面の向こう側が下流方向です。

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 西側方向を遠望。  
 画面の左上の緑マークは同一地点での撮影です。



 北側方向を遠望。

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 東側方向を遠望。

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 万葉歌では人島(ひとじま)と人妻とが絡み合う微妙な地点です。   
 画面の向こう側が下流方向です。

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 通称・平生湾です。万葉では麻里府の浦になります。
 南周防大橋の田布施側にて撮影。

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 南周防大橋は万葉麻里府の浦を横断しています。歩道も完備していますので万葉にひたるには絶好の場所です。
 万葉歌人たちにとって麻里府は懐かしい故郷への出入り口であり、そこに眠る女神を愛していたのです。

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 南周防大橋の平生側にて撮影。   

 神花山古墳や阿多田古墳は麻里府の浦に浮かび、丹塗り矢の下った流れがたどり着く所です。
 阿多田古墳は推古天皇初代陵墓と推定している所です。そうすると、大物主の神は天竺毘首羯磨(てんじくびしゅかつま)でインド人ですから、我が国の古代仏教伝播ルートはインドから直接渡来していることをも証明しています。それを中世の言葉で言いますと南伝仏教とか北伝仏教というふうに言いますが、それは中国や韓国を介した中世の事であって、我が国の古代仏教はインドから海路で直接伝わっています。それを証明している一節として「奇道を使って民をまとめている」というような記録もあります。彼の国ではまだ仏教が奇道なんです。仏教を中国にもたらしたのは三蔵法師(玄奘)ですが、歴史の事実と伝説とではだいぶ異なります。そうした内容は以前に磐国山の章でも載せましたが、もう一度載せてみます。

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 玄奘(げんじょう)の年代や年数の特徴を導き出して逆算していきますと、玄奘は推古天皇が亡くなった年に修行旅に出発しています。    
 玄奘の旅の様子を知るには、「大唐西域記」という記録があります。大唐西域記を書かなければならなかった背景には、玄奘が時の朝廷に西域事情をくわしく報告しなかったからでもあります。朝廷としては、西域にくわしい玄奘を側近に置き、西域の事情をいつでも聞けるようにしておきたかったようです。ところが、玄奘はそれに応じませんでした。「大唐西域記」にはそうした事情があります。現存している記録が玄奘の書になるものかと言うと、どうもそうではないらしく、宋代以後の版本という事です。それを読んで不思議に思うのは、あれほどの経典を持ち帰りながら、経典のことについては、まったく触れていないことです。いくら朝廷に差し出す本と言えども、経典入手にまつわる苦労話しなど一つや二つは有ってもいいはずです。ところが、意に反して経典の話しは、まったく有りません。「大唐西域記」を読んで個人的に感じたことは、あの有名な隋書の文体とそっくりであるということ。漢文の記録というものは、ああいう体になるのかもしれませんが、実によく似ています。私が読んだ本が翻訳本だったからそう思ったのかもしれませんが・・・。その隋書にも「大隋翻経婆羅門法師外国伝(だいずいぼんきょうばらもんほうしがいこくでん)」というのがあったようですが、有るや無きや、私はまだ見ていません。経典について特徴的な年代をわかりやすいように西暦であらわしてみますと、611〜615年の間に聖徳太子が経典の義疏を完成させています。玄奘が旅から帰国して経典の翻訳を始めたのが644年からです。という事は、仏教は日本の方が先行しています。そもそも天竺毘首羯磨(ミケヌノミコト)をはじめとするインド人達との交流は仏教の先進国であることの証しでもあります。中国の仏教伝記にこんな書物があります。「唐大和上東征伝」この題名の読み方は「だいわじょう」ですか?「東征伝」ですね。その本に登場する地名に「阿児奈波」という所があります。阿児山のふもとの難波ではないですか?そこには四天王寺の前身がありました。八幡の涅槃像の上です(極楽寺跡があります)。  
 聖徳太子が煬帝に送った手紙のナゾ。今まで様々な推測が飛び交った文書の一節のナゾが解けてくるようです。
 「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」
 ひいずるところのてんし、しょをひぼつするところのてんしにいたす、つつがなきや

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 こうしたことを見ても我が国の仏教が優れているわけです。
 今まで散々笑いものにされてきた丹塗り矢伝説は実は極めて重要な伝説でもあったのです。



 通って来た方向を振り返ってみた写真です。
 金比羅山は石城山の左側辺りのふもとにあります。   



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