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三輪神社 左右ほこら堂 方位線分析図

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A○ コンピラ山のふもとの橋。橋の道は旧参道 (本参道) です。近くに猿田彦の石碑あり。

B○ 三輪美原の浄国寺。

図左側の地名、溝呂井(みぞろい)の所、オレンジマーカー岩戸八幡宮、グリーンマーカー冠念寺。

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光市(ひかりし)光井(みつい)八海(やかい)です。

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光市、武田薬品光工場の所です。

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以下、20万分の1地勢図




小水無瀬(こみなせ)島が線の内側。

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福岡県築上郡です。

図右側の山国川周辺は通称神武東征による激戦地だったと推察している所です。

神武は山国川の中州に陣取って周辺を侵略していったと思われます。

だから、方位線は宇島(うのしま)を指しています。宇は鳥の鵜を意味しています。

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田川市の南側辺りにある嘉麻市です。

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筑紫野市と朝倉市の所です。

鳥栖 IC の近くに田代太田古墳があります。

また、基山(きざん)には基肄(きい)城跡があります。


この基肄(きい)と大野、それに鞠智(くくち)は古代の城跡としてあります。

その根拠は日本書紀と続日本紀に記載があるからです。


日本書紀は、天智天皇四年(665)の秋八月に記載があり、次のように記してあります。

(使者名略)長門國それに筑紫國の大野及び椽の二城を築かせた。とあります。

ほんの短い記述です。使者の名前のほうが長いぐらいです。


鞠智(くくち)の記載は続日本紀の文武天皇二年 (698) の五月 に記載してあります。

大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を修繕したとあります。

これも短い記述で、ほんの十六文字です。

その十六文字が後の歴史で大きく膨張することとなります。


そうした訳で、歴史のうえでは天智天皇以後の古代山城跡としてあります。

山城とするのは神籠石遺跡と同じことでありまして、神籠石遺跡の根本は

古代の農園(綿花栽培)であることは今までも度々主張証明してきました。



余談になりますが、私は朝鮮式山城と呼ぶのが嫌いでありまして、なんで朝鮮式なのかと言いたくなります。

現状では石を石垣状に高く積み上げたのを朝鮮式と呼んでいますが、それは石積み式山城と呼ぶのが相応しい。

対する石を横並びに連結させたものは神籠石遺跡ですが、それも朝鮮式と呼ばれることがあり、相応しくない。

横並びは石列式山城と呼べばいいことです。もっとも、山城として再利用されたのは後世のことであります。



話を元に戻しまして、では天智天皇以前の基肄(きい)はどういう状態だったのかと考えます。

その疑問は万葉集にあります。神籠石遺跡は万葉集が解明してくれましたが、基肄(きい)も

同じように万葉集が解決してくれそうです。万葉集・巻第八 にあります。


巻第八は春夏秋冬を詠んだ歌が全てを占めています。

春は花鳥、夏はほととぎす、秋は天の川や荻、雁、もみじ等、冬は雪や梅、などが詠まれています。

そうした中の「夏の雑歌(ぞうか)」と題した中の歌に特別長い注釈文があり、その注釈文に「記夷城」とあります。


その「記夷城」の記載してある「夏の雑歌」は主にホトトギスがテーマです。

なぜホトトギスなのかは、ホトトギスの習性を知る必要があります。

ホトトギスは自分で子を育てません。他の鳥の巣に卵を生み、他の鳥に育児をさせます。

つまり、ホトトギスは親鳥を知らない鳥でもあります。

さらに、成長して巣立つ時には自分の巣をぶっ壊して巣立つのだそうです。

そうしたホトトギスの習性を初代ヤマトの人々(先代)に掛けて歌を詠んでいます。


特に親鳥を知らないという部分が大事で、それは初代ヤマトの子供たちを戦乱から守るために

守りの強固な九州や岡山方面に分散疎開させたことをホトトギスにたとえています。

幼い子供たちを引率して逃げた(疎開した)のは若い女性たちです。

疎開は長年に渡ったようです。引率した子供たちも成長して大人になります。


だから万葉歌の注釈文は大伴郎女(おおとものいらつめ)が亡くなった時に

わざわざ太宰府までお悔やみに行っています。

お悔やみに行った人々たちは、かって世話になった子供たちでしょう。

そうしたことを見ますと、大伴郎女は育ての親だったと思われます。

そして、お悔やみが済むと思い出の基山に登って昔を偲んでいます。


注釈文には記夷城とありますから、その時にはすでに山城の形態に変わっていたのかもしれません。

そうしたことから、万葉歌の「記夷城」は基山(きざん)の基肄(きい)城と見ていいと思います。


では、山城になる前はどんな山だったのかを知るには、万葉歌の分析になります。

夏の歌は雑歌と相聞を合わせて全部で 46首あり、ホトトギスをテーマにして詠んでいます。

ところが、それらの中にホトトギスのテーマに即していない歌が、見た限り 12首あります。


そのホトトギスのテーマに即していない 12首の歌が特に重要です。

12首の内、1首だけ蝉(ひぐらし)を詠み、ほかの 11首は花とその実に関係した歌です。

橘の花を詠んだ歌が多いわけですが、それをそのままストレートに橘の花と解釈せず、

なぜここで花なのかと考えます。そうすると、夏の歌のラストは「なでしこ」の花を詠んでいます。

その歌の意味は 「私が標 (しめ) をした野の花ではないでしょうね」 と問いかけて終わっています。

そして「秋の雑歌」へと移るわけですが、その秋の雑歌のトップの歌は「小倉」の歌です。

「夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は」 と歌う石城山のふもとの歌です。

小倉の歌は、もう一首ありますが、それは別の証明で繋がっていますので、ここでは考えません。

秋の雑歌のトップにある小倉の歌で見ます。


なでしこの問いかけに対して小倉で答えています。つまり、「私が標をした野」です。

九州の基肄(きい)城と、山口県の石城山を歌で結び付けています。

石城山をはじめ各地の神籠石遺跡は綿花栽培の農園からスタートしています。


そうすると、基肄(きい)城のある基山も綿花栽培の農園が始発点であり、

農園の跡地を再利用して山城を造った、ということになります。

残存する石積み遺跡の大部分は農園時代に築かれたものでありましょう。

水門と名付けられた水汲み場を特別美しく造っていることからも証明されます。


基肄(きい)城が農園であれば、大野城と鞠智(くくち)城も同じ始発点を持っていたことでしょう。

基肄(きい)城の頂上部や各遺跡には溜池遺構があります。農園に水は欠かせません


先述した 12首の歌が花と実に執着していることから綿花栽培の農園であることがわかります。

綿花は花が落ちて綿の実が結実します。花が早く落ちてくれたほうがいいのです。

綿花栽培によって莫大な富を得た、だからこそ大きな発展をしたのです。

そのことは、次の吉野ケ里遺跡へと繋がっています。

そして、なぜ綿花農園が廃れたのかも明らかになります。


各遺跡の所在地

基肄(きい)城跡  佐賀県三養基郡基山町小倉

大野城跡  福岡県糟屋郡宇美町四王寺

鞠智(くくち)城跡  熊本県山鹿市菊鹿町米原



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方位線は佐賀県の吉野ケ里遺跡を指しています。

吉野ケ里遺跡の栄えた年代は弥生時代の全域に渡っています。

弥生時代前期 (紀元前 5〜2 ) に始まり、弥生時代後期 (紀元後 1〜2) が最盛期です。

大きな特徴として、埋葬施設 (墳墓) が多く、その数を見ますと、吉野ケ里の全ての人が

埋葬されたのではと思えるほどの数です。

そして古墳時代の初頭になる頃には忽然と人々の営みが途絶えています。



吉野ケ里遺跡を考察する時には、吉野ケ里から約 5キロの所にある帯隈山神籠石遺跡も

合わせて考察する必要があります。しかし、現状は神籠石遺跡の年代設定が新し過ぎ、

吉野ケ里と帯隈山は結び付けて考察されていません。その背景には神籠石遺跡が山城

であるとの考え方に固執しているからです。神籠石遺跡は綿花栽培農園の跡です。

綿花栽培は、人々に収入源となる仕事をもたらし、また、地域が栄える糧となりました。



神籠石遺跡はあまり高くない丘にあります。丘の 7〜8合目を鉢巻き状に廻っています。

では、なぜ丘の上なのかと申しますと、このホームページの綿花栽培のページでも書きました。

私が実際に古代方式で綿花栽培をやってみましたところ、害虫対策が根本にあります。



害虫は棉の葉に付いて葉を食い荒らし、棉の発育に大きな影響を及ぼします。

おもに葉巻き虫という害虫ですが、その害虫は地面の 10〜15センチ底に潜って越冬します。

春になり、棉が発芽して成長期にある大事な時期に地面から出て来て棉の木を登り、葉を食い荒らします。

重要点は地面の浅い所に潜って越冬するということです。それなら、畑の表土を削り取ればいいです。



ところが、平坦地ですと、表土除去をすると低くなってしまうので、できません。

それなら丘の上を畑にすれば害虫が地面に潜って越冬している間に表土を削り取り、その廃土は

谷へ捨てればいいです。私が実際に廃土と新土との距離をどのぐらい離したらいいか

やってみたところ、ほんの数メートル程度離しただけでも大きな効果がありました。

すなわち、廃土を畑の脇の谷へ捨てても影響は少ないです。多少は飛来害虫もありますが、

地面から出て登って来た時ほどの食欲旺盛な害はありません

そうしたことから農薬の乏しかった古代の棉の栽培は丘の上になったのです。



しかし、丘の上と言っても、棉の成長期には多量の水を必要とします。

よく言う話に、棉に水をあまりやると根腐れを起こすというのがありますが、それは土が悪いからです。

特に棉は山砂のような綺麗な土を好みます。田畑の土でも発育はしますが、綿の収穫量に差が出ます。

山砂のような綺麗な土ですと、いくら水をやっても大丈夫です。いえ、水をたくさんやったほうがいいです。

そうしたことから、棉の栽培は湧水のとれる丘が最適ということになります。

私が古代方式でやってみての収穫量の最大値は 1本の木に対して約 100玉付きました。

田畑の土ですと 20〜30玉とれれば上々でしょう。そのぐらい大差がつくのです。



なぜ丘の上かというナゾが解けました。しかし、丘の上ですと風当たりが強いです。

棉は発芽して 約 2か月ぐらいは幹が細く (2〜3ミリ)、添え木もままならないほどです。

幹が細いくせに葉の面積が広くて、たとえば、人が思いっきり息を吹きかけたぐらいでも

何らかのダメージがありそうです。だから、風当たりには気を使ってやる必要があります。



では、風当たりの強い丘の上の防風対策はどうやっていたのかという本題に入ります。

竹や木などで畑の畝ごとに暴風垣を作るという方法もあります。また、石を積んでの対策も

考えられます。実際にエジプトのピラミッドを形作っている長方形の石材は、元は綿花畑の

防風用石材だったというのが私の推論です。砂漠一面に綿花畑があったと私は見ています。

棉は水さえあれば砂地を好みますから。やがては、羊毛などの代替品が出て、棉の栽培は廃れ、

要らなくなった防風石材を使って、ピラミッドというモニュメントにしたというのが私の推論です。



話が外国へ跳びましたが、神籠石遺跡の場合、2〜3年に一度は表土を取り除くという作業が

ありますので、竹垣や木の垣根、石積みなどの防風対策はできません。ではどうしたらいいか。

結論は『ハニワ』です。円筒埴輪などは、綿花栽培に使ったことが如実に表われています。


ハニワは横に穴が開いています。今まではその穴はなぜ開いているかがナゾのままでした。

発芽したばかりの苗木に横の穴から水をやるのです。上からたれ流せばいいようなものですが、

上から水をやったら山砂が水流で掘れてしまって、デリケートな棉の根がむき出しになってしまいます。

だから、砂地を崩さないようにそっと水やりをするために横に穴が開けてあるのです。


素焼きの円筒埴輪は重いですから、ハニワの下部を少し埋めておけば防風にはもってこいです。

畑の表土除去の時も脇へずらせばいいだけです。

また、素焼きのハニワは保温効果もありまして、素焼きは日光が当たるとホカホカ温かいです。

そうして棉が成長すれば添え木でやれますが、それでも棉は葉が広いので、防風円筒は必要です。



では、なぜ神籠石遺跡にハニワが出土しないのかは、遺跡全域に渡る充分な発掘調査が

されていないせいもあるかとは思いますが、おそらく、古墳へ立てるために使われたのでしょう。

故人の生前の生産量 (力) を誇示するために古墳の周りに立てるようになったのです。

やがては、防風の意味など忘れ去られ、墳墓を装飾するためだけの物へと進んでいくのです。

穴の位置が合わないハニワは最初から装飾ハニワとして作られたと見ます。

穴を開けておくのは昔からのならわしだ、ということで意味もわからず開けていたのかもしれません。

これで防風対策は解明できました。



こんどは、神籠石その物の意味です。

綿畑だったのなら、なぜ、列石で周りを囲む必要があったのか、というナゾです。

書けば実に簡単明瞭なことなのですが、野生動物の少なくなった現代では気づき難いことです。

野生動物は地面に穴を掘って侵入します。柵を立てても下を潜って入って来るのです。


石城山神籠石を例に挙げてみますと、遊歩道から見る神籠石は大きく見えますすが、

石の奥行きはほんの 20センチぐらいしかありません。まるで石の板のような感じなのです。

石自体が軽くて土留めにはなりませんし、柵の礎石にもならないような石がたくさん並べてあります。

地面のうねりを整地せずに、うねりに忠実に並べています。手抜き工事のようにさえ見えますが、

石を連結させる接合面の精緻さは、まさにナイフの刃をも通さないほどの精緻さです。

そうした事実を見ても、初期の神籠石は柵下を潜って侵入してくる害獣除けだと結論付きました。




次に、石垣状の石積み遺跡について見てみます。

各地の神籠石遺跡の石積み遺跡は水門と名付けられた所に集中しています。

綿花栽培に水は必要ですから、水汲み場としての役割りをしていたと考えられます。

水汲み場は石積みで築き、特別に美しく造ってあります。

水汲み場としていたことがよくわかる遺跡として、御所ヶ谷神籠石の水門があります。



では、水門以外の石積み遺跡は、と申しますと、時代をだいぶ下っています。

その一例として、石城山神籠石を例に挙げて話します。

石城山の北門から東へ向かいますと、列石は急上昇して、上で土塁跡になり、

その先に石積み遺跡 (石垣) があります。神籠石の列石は石積みの下へ潜って行っています。

そうした部分を見ても、石積み遺跡は後の時代に神籠石の上に築かれたことが一目瞭然です。



それらの石垣を指して朝鮮式山城と呼びます。そう呼ばれる背景は日本書紀にありまして、

築造する時、百済人を派遣したという記述があるのでそう呼ばれている訳です。

そこで、裏を返してみますと、神籠石の上に石垣を造った訳ですから朝鮮式は時代を下っています。

石垣は世界中どこへでもありますから、朝鮮式というのは納得しない呼びかたではあります。



話を元に戻しまして、すなわち、神籠石遺跡はひとつの時代だけでは語れない、ということです。

石城山の場合は、中世の頃に仏教寺院で栄えており、山中至る所に坊舎跡の遺跡が散在します。

かっては空海も訪れたことが古記録にあります。そうしたことを見ても仏教坊舎建築のために

遺跡を再利用されており、だいぶ手を加えられています。だから、ひとつの時代だけでは語れません。



では、神籠石はいつ頃の時代に築かれた物かと考えますと、先述したエジプトピラミッドでわかります。

ピラミッドは使わなくなった防風用の石ブロックを積み上げてモニュメントに使いました。そうすると、

日本の神籠石はピラミッド以前の時代へと遡っていきます。そもそも、エジプトピラミッドの年代設定が

どこまで正確なものかは私にはわかりませんが、メンカウラーという日本語が使われています。



日本史で考察しますなら、青森県の三内丸山遺跡を指している方位線もあることを見ますと、

その頃、つまり、神籠石は縄文時代 (紀元前 3000年頃) の築造ではないかと見ています。

エジプトとも年代はおよそ合います。その後も弥生時代にかけて長く使われているのです。

列石の風化量を観察してください。あのぐらい風化するといったら相当な年月です。



次に、神籠石の終えんについてです。通称「土塁跡」から見てみます。

土塁という物は、土石を盛り、突き固めて造った土の防護壁で、主に城壁などに造られます。

岡山県の鬼ノ城遺跡に土塁が再現してあるのでそちらを見ればわかり易いです。


さて、神籠石の土塁は、と言うと、土塁と言うには腑に落ちない点が多々ありまして、

たとえば、あなたが山に城壁を造るとしたら、山にわざわざ土を盛りますか?それとも、

山の斜面を削りますか?たぶん、山の斜面を削って造るほうが早くて造り易いはずです。


ところが、神籠石の列石には人為的に土を盛って列石そのものが土で被ってありまして、

その被ってある土石を指して現代は土塁跡と言っています。それならあの精緻な列石は

何の意味があるのか、と言いたくなります。

列石は土留めという向きもありますが、列石は平坦地だけではなく、山の急斜面を

急上昇している列石もありまして、土留めどころか土滑りになります。


私は二十年前に各地の神籠石を見て歩いた時、発掘遺跡の奇妙な光景を見ました。

それは、石積み遺跡を発掘していた現場なのですが、石積みが崩れた状態で出土していました。

つまり、石積みを崩された上で土を被せた、というのが明瞭な状況なのです。

土塁を強固にするために崩したのなら、位置的に土塁の必要性の無い場所です。

これは後々に大きな収穫でした。


すなわち、神籠石遺跡は、いつの時代にか崩されて、土を被せてわからなくされていることです。

その隠すために被された土石を、現代は土塁跡と思っているのです。

では、なぜ、わからなくする必要があったのか、ということになります。


それは通称の神武東征に繋がっていまして、ひいては吉野ヶ里がなぜ滅びたかの訳になります。

神武東征の物語は大陸人の支配下にあった時代に決死行で書かれた記録です。

書物を敵に発見された時のことを考えると、神武を悪者には書けません。

おのずと敵に気付かれないように裏で語る、という記述になりましょう。



しかし、それなら現代の神武天皇を祀る神社はどうなるのか、ということになります。

それは名を換えています。古事記には名を換える場面が二か所あります。

原典文字で解読すればわかります。


現在、神武天皇を祭神とする神社の本来の祭神は神倭伊波禮毘古命のはずです。

記紀に書いてあるのだから祭神名は神武天皇だとされるのも当然なことです。

しかし、古来から神武天皇の祭神名を持つ神社はそう多くはないです。

記紀に神倭伊波禮毘古命は神武天皇だと記してあるから神武天皇としている、というのが

多くの神社の祭神名です。神倭伊波禮毘古命という本来の祭神名にすれば解決します。

それが答えです。



つまり、現代は神武東征といって、神武天皇は乱れていた日本を統率したという感じで

語られますが、それはとんでもないです。日本各地を始めとして、世界の国々がお互いに

交流し合っていた平和な時代の日本を滅ぼしていった極悪人です。現代に至るまで影響しています。

それでも日本を統率したリーダー(天皇)ですから、国史には天皇だったことは記録されます。

ならば、現在の天皇は系譜を引いている血筋だと思われることでしょう。そのことも記してあり、

古事記の今までの解読翻訳を捨てて、新たに解読すればわかります。その記述には

『 飛鳥川の河原に集結して、ひざ元の筋を絶った 』という一節がありまして、すなわち、

神武天皇の血筋を絶ったという意味です。ですから、今の天皇に神武の血筋は無く、

元よりの日本人です。



では、神武による侵略はどういうふうに行なわれたかは、古事記や万葉集、その他の

古典籍を分析すればわかります。ここでその侵略過程を簡単に見てみましょう。



まず、当時の日本は外国に開かれた国だったようです。今で言うなら、移民を受け入れて

いたようです。そうした証拠は吉野ケ里遺跡にも見られまして、出土遺骨から身長が高く

日本人ではない遺骨もあるそうです。遺骨の分析は大陸人ということになっていますが、

朝鮮や中国人はそんなに身長は高くはないですから、私が思うにはローマ系の人物では

ないかと思います。そう思う根拠は古典籍にローマ人が登場します。それにも増して、

今でも当時の英語圏の名残りが残っています。単直な例として、手をハンドと言いますが、

ハンド島という島名が平郡島の沖にあります。今は「はんどう」島と発音しますが、まぎれもなく手です。

古代の日本は、そうした外国人を受け入れ、その代わりに外国の文化を吸収して発展していました。


しかし、その移民の中には敵に相当する人物たちも多かれ少なかれ入っていたようです。

俗に言うスパイです。それは朝鮮や中国などの大陸からやって来た移民たちです。

大陸系だと言える根拠は、侵入過程で明確になります。




侵入過程や侵入経路は古典籍には記してありません。その代わりに神社で記しています。

神社を人の足あとのように点々と置いていくという方法で侵入経路を示しています。

侵入は山口県の萩市から始まったようです。萩市の阿武川の河口には中州がありまして、

今の萩市役所の周辺になります。その中州に陣取って侵攻を始めたようです。

侵攻の悲惨さは土井ヶ浜遺跡の出土遺骨を見れば明白です。


侵攻前に渡来人として入り込んでいた者たちは最初に王の妻たちに接近して乱します。

王の内情が乱れれば当然のように内政も乱れますから防衛も隙が出ます。

渡来人として入り込んだスパイたちはそうして侵攻の下ごしらえをしたようです。


大陸との連絡には伝書鳩を使った可能性があります。

ただ、鳩が日本海を渡れるかどうかは不明です。

いよいよ侵攻になる時には狼煙台などの通信網を遮断したようです。

それを真っ先にやっておかないと、狼煙の伝達速度は昼夜問わずに早いですから。


狼煙はどういうふうに上げるかと申しますと、昼間は山頂から少し下った中腹で

伝達方向に向かい、自山を背にして煙りを出します。昼間に山頂で煙りを上げても

空の雲と煙りが同化して気づき難いからです。対する夜間は山頂で炎を高く

燃え上がらせます。そうして煙りや炎に被いを掛けて途切れる回数で通信内容を

伝達します。たとえば、緊迫性を要す場合は何回も何回もカットするというふうにです。

その早さは光の速度で伝わります。『のろし』という呼称は、たぶんジョーク混じりでありましょう。


そうした訳で、スパイは狼煙台の情報を真っ先に入手し、侵攻前に狼煙台を制圧して通信網を絶ちます。

通信網を絶たれていたとわかる根拠は、深夜の寝静まった時間に突然奇襲をかけられているからです。

古記録には奇襲されたと直接的には書いていません。敵の支配下で書くにはそうするしか無かったのでしょう。

古記録では奇襲による戦乱を地震 (なゐ) という表現で書いています。

本当の地震と、戦乱の意味の地震とを読み分ける必要があります。



侵攻は萩市から始まり、山口県の中国山地を越える経路で侵入しています。

その侵攻経路は神社を置いていく方法で記録してあります。私は足あとの神社群と呼んでいます。

萩から入ったと言える根拠として、萩市側からは鶴江神明宮の方位線が中津の山国川の河口中州を指し、

中津側からは闇無濱神社の方位線が萩市の中州を指すという方法で、相互に連携しています。

さらには、八幡古表神社の方位線が足あとの神社群の 1社を指すという念の入れ様で記録しています。

その辺りは別ページを参照していただくとしまして、足あとの神社群には不思議な枝があります (下図)。


私は偶然に枝状の配置になったのだろうと思い、その件は保留にしていました。

そうして岡山などを先に検証してみますと、挟み撃ちの戦法が明確に出て来ました。

そうすると、山口県の枝状の足あと配置は、偶然に出来た枝ではなく、

途中で二手に分かれていると推察出来ます。その分かれた枝は、今の新南陽市に出ます。

新南陽市の神上神社は神武天皇を主祭神とし、神武天皇が腰をかけたという磐余石があります。





萩市を起点とした足あとの神社群を線図にしてみました。

A の足あとは初代ヤマトの中心地へと向かいます。

B の足あとは『 三作岩戸神楽の里 』で終わっています。

C の足あとは新南陽市の神上神社へと向かいます。


すなわち、ここで山側からの侵攻組と、海側からの侵攻組とに分かれたのです。



私は当初、分かれた地を熊毛神社のある熊毛町に見ていました。

熊毛町で二手に分かれて島田川を下ったと見ていました。

そう見た背景には島田川の河口の物語がありまして、

海から来たとは考え難かった訳です。

しかし、川下りだと諸々な問題点がありました。

実はもっと広域で見る必要があったようです。

熊毛町の件は削除修整してお詫び申します。



本題に移りまして、もう一度上図をご覧ください。

分かれた地を八坂ではなく、三作神楽 (みつくりかぐら) の里ではないかと考える向きもあると思います。

図の線上に入れた青● (足あと) は神社の置かれている地点です。

その青●を見ると、やはり八坂の地で分かれていると見るのが自然だと思います。



八坂からほぼ真っすぐに山畑⇒上村⇒大谷⇒奥田熊⇒神上神社と繋がっています。

ここまでは山間地でしたが、神上神社から海浜はすぐ近くです。漁村で船を奪います。

さらに、足あとは神上神社で終わっている訳ではなく、遠石八幡宮まで繋がっています。

そうすると、海浜に沿って進軍し、村々で軍勢を乗せる船を奪いながら進んで行ったと見れます。

そうして船で進軍し、やがて光市の島田川河口へ突入ということになります。

なぜ島田川なのかは、からと水道へ入ると、遠浅干潟の水路ですから汐待ちをしないと入れないからです。

これが海側からの侵攻組になり、山側の侵攻組は石城山を奪って拠点の城としたのでしょう。

石城山の南東側には初代ヤマトの地が広がっています。これが挟み撃ちのあらましでしょう。



初代ヤマトの地を落とした軍勢は船で瀬戸内海を渡り、大分県中津市の山国川の河口へと進軍します。

九州勢は、まさか瀬戸内海から侵攻して来るとは想定しておらず、守りは手薄になっています。

中津へ上陸した軍勢が九州をどういう順序で侵攻して行ったのかは、推測するしかありませんが、

広域に分散している神籠石遺跡をすべて攻め落としているところを見ますと、軍勢を分散させて

短期間の間に侵略を完了したと推察できます。攻め落とした地域の住民 (捕虜) を使って、綿畑を

再起不能に破壊して収入源を絶ちます。神籠石の上の土は土塁跡と見なされていますが、破壊工作であり、

捕虜を使って土を被せて埋めさせた跡だと見ています。その証拠に出土するのは破壊された石積みです。

奪い取った綿のタネなどは自国へ送って自国製品とします。



奪い取ったのは綿製品だけにとどまらず、仏教の経典などもそうです。

その根拠は日本書紀に経典の内容が盛り込まれており、経典の言葉を裏から使って物語にしています。

たとえば一例を挙げますと、妊婦の腹を裂いて胎児を見た、などという表現です。

これは般若心経の一節にあり、般若波羅密多心経 ( はんにゃ はらみった しんぎょう ) です。

日本書紀を改ざんする時、仏教経典に精通していなければ気付かないことです。まだまだありまして、

人をさらって来た、などと、これは阿弥陀経の最終部、作禮而去 ( さーらいにーこー ) と読誦する部分を基にしています。

つまり、日本書紀が裏言葉で訴えているところは、経典は日本で訳出された、と言っているのです。


日本で訳出された背景には、インド僧の渡来があります。

仏教はインドから直接日本に伝来したのです。

インド僧の渡来があったことは日本書紀に明瞭に記してあります。

しかし今の日本の歴史ではそれを採りあげることはありません。


なにがなんでも中国から朝鮮を経由して伝来したのです。

そうした朝鮮経由の学説は近畿方面の中央を中心に置いて導き出した学説であり、

実際にはその前があるのです。つまり、今の日本の仏教は逆輸入の可能性があります。

九州には磨崖仏と呼ばれている彫刻がたくさん存在しています。そのこと自体が尋常ではありません。

また、奈良の大仏の完成式典には、はるばるとインド僧が招待されていることも知っておく必要がありましょう。





2本の方位線の中に佐賀県下最大の船塚古墳 (前方後円墳) があります。

また、弥生時代の集落遺跡、土生遺跡があります。

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佐賀県武雄市にある『 おつぼ山・神籠石 』 ぴたり線上にあります。

ここでも綿の生産をしていたのでしょう。

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長崎県佐世保市の周辺です。有田町には泉山磁石場があります。


左ほこらの線、佐世保市の所には岩下洞穴や泉福寺洞窟、福井洞窟などがあります。

岩下洞穴では縄文前期に属する人骨が洞穴の奥に密集した状態で約 30体出土しています。

石器時代に居住洞穴として使われていた洞穴を縄文時代に墓穴にしたと推察できます。


泉福寺洞窟では 1万2千年〜1万3千年も前の豆粒文土器 (とうりゅうもんどき) が出土しています。

福井洞窟では 3万年以上前のサヌカイト石器が出土しています。


これだけでも大変な出土物なのですが、採り上げられることもなく知る人は少ないことでしょう。

そもそも、日本の古代史は、石器、縄文、弥生、古墳時代などという大雑把な分け方が大問題で、

外国では紀元前○○年で語るのに対し、日本では先述した分け方なものですから、比較し難い。

だから、日本の歴史は浅く見られる傾向にあります。 ここで明確にしておきます。


石器時代は後期石器時代が紀元前 1万4千年〜紀元前 3万5千年前の辺りです。

これは後期ですから中期や前期石器時代となると、まだ古いです。

縄文時代は紀元前 1万1千年〜紀元前 1千年の辺りです。

弥生時代は紀元前 4百年〜紀元後 2百40年の辺りを言います。


この年代を外国の遺跡年代と比較してみると、日本の遺跡や歴史がどのぐらい古いかわかりましょう。

年代を数で表わさずに日本だけにしかわからない名前で語るという表わし方に問題があるのです。


各遺跡の場所

岩下洞穴遺跡  長崎県佐世保市松瀬町

泉福寺洞窟  長崎県佐世保市瀬戸越

福井洞窟  長崎県佐世保市吉井町


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五島列島です。




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