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  麻里府-1

所在地・・・山口県熊毛郡、田布施川の河口付近





上図の赤丸を拡大したのが下図です。





国土地理院の地図には尾津と書いてあります。

尾津東、尾津中、尾津西、とあります。その辺りが万葉の麻里府です。

麻里府の「府」は、「府」と「布」の二種類の文字使いがありまして、

天保年間に編纂された防長風土注進案にはどちらの文字も記載されています。

防長風土注進案での麻里府は麻郷(おごう)の欄に記してあります。挙げてみます。


熊毛郡上関御宰判  麻郷

麻郷は往古、麻多く生長して、帝都へも献じ奉りしより、

自ら村の名を麻郷と呼び来たり候よし古老の申し伝えに御座候。

また、この海辺として入海にて麻里布と申す名の所ありし。

玖珂の郡にて御座候ところ、その後、熊毛郡に属し候。

右、麻里布の麻里をとりて村の名に致し候事、いつの頃よりか

里を郷と書き候て、麻郷と唱え候と申す一説も御座候。


(部分引用) 村内小名に「麻里府」とあり。


(部分引用) 麻里府は江田の南にありて、海に瀕し、西別府村の境に接する。


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このページでは岩国市の麻里布と区別する意味で麻里府と書くことにします。






麻里府で潮待ちをする船は、九州・四国方面から来た船です。

大阪方面から来た船は、柳井市での潮待ちになります。

九州から来ますと、上写真の梶取岬(かんどりみさき)を過ぎて麻里府です。


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梶取岬を過ぎると、上写真の風景になります。

画面左側の辺りが麻里府です。

からと水道の進入口になります。


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麻里府は、からと水道の進入口になり、

そこには上写真の阿多田島(あたたじま)があります。

この島の頂上には前方後円墳の阿多田古墳があります。

この海風想で、改葬前の推古天皇陵だと位置付けています。

2018年現在、茂って入れないです。

下の写真は国道 188 号線から見た阿多田島です。





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麻里府漁港から見た、からと水道の進入口です。

画面中央の少し左側の所から漕ぎ込んで行きます。


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上の写真は麻里府漁港から見た阿多田島です。

私は中学生の頃に泳いで渡ったことがあります。そのぐらい近接した距離です。


下の写真は同じ地点から撮影した神花島(じんがじま)神花山古墳です(矢印の所)。

阿多田古墳と近い距離で並んでいて、地元では昔から姉妹の古墳と語り継がれています。





阿多田半島を探索したページ。(内部リンク)


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麻里府には麻里布住吉神社があります。

下図 B の所です。













以上三点、麻里布住吉神社。

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この麻里布住吉神社は、天保年中に編纂された防長風土注進案には別府村の欄に記載してあります。

先の尾津などは、こちらの別府村に入っています。天保年の頃にはすでに麻里府としての正式な地名は

廃れていたか、または記録から隠ぺいされる方向にあったと見ています。それを証明する事として、麻里府は

所属する宰判を転々と変えられています。記録に残る限り当初は玖珂宰判に属し、後に熊毛宰判に属す、

というふうに転々と変わっています。そして天保の記録は上関宰判に記してありますから、随分と転々としています。

そうして、やがては曖昧になり、麻里府の地名すらも記録されなくなってしまいます。

どうしてそうなったのかは、当時の力関係によるものが多大だと見ています。

昔には由来というものが重要視され、由来の争奪戦に巻き込まれてしまったのです。

なぜ、由来の争奪戦を繰り広げるほど麻里府が重要なのかは、これから説明していきます。


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麻里府は陰陽道の聖地




陰陽道の祭事を記した中央の古記録です。参考に載せてみました。

仁和四年は西暦にすると 888年です。

その頃はすでに中国の思想に染まった祭事方法です。

そう申しますのは、中国の思想に染まる前の

日本古来の陰陽道が存在していたからです。

その日本古来の陰陽道が麻里府には残っているのです。

では、それを見てみましょう。

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麻里府には「麻里府大権現」と呼ばれていた社がありました。

その存在については、あまりにもナゾが多く、防長風土注進案には

平生町曽根村の由来記に記してあります。

麻里府でありながら曽根の由来記にあるのです。

なぜ曾根村の記述に入れてあるのかと申しますと、先述した麻里府の由来。

麻里府は、あちこちの宰判を転々としていました。

そうしたことから、麻里府の対岸である曽根村が気を利かしたのかどうか、

麻里府大権現が忘れ去られる前に記しておいたのでしょう。


では、麻里府大権現は何処にあったのかを追及するには、先述した

日本古来の陰陽道を知ることによって、正確な位置を立証することができます。

その位置を示したのが上図です

A と B の神社は鬼門守護神として祀られた神社です。

A は妙體権現という社で、城山の中腹にあります。

B は先述した麻里府住吉神社です。

何の鬼門を守護していたのかは、青丸印の所。

城山 ( じょうやま )の山頂になります。

そこは今はもう土砂採取によって、山そのものが消えてしまいました。

地元の古老は、城山の山頂に石積み遺跡があったと語ります。

その石積み遺跡こそ麻里府大権現の跡地だったのです。


しかし、日本古来の陰陽道と言っても、これだけでは信ぴょう性が無いと思います。

日本古来の陰陽道を立証するため麻里府の鬼門方位線を出してみたのが下の図です。





線 城山・麻里府大権現跡  鬼門守護は、妙體権現、浮島神社、蓮台寺

線 阿多田古墳  鬼門守護は、Aの所にある荒木神社

線 用明天皇陵跡  鬼門守護は、Bの所にある竪ヶ浜・大歳神社

線 神花山古墳  鬼門守護は、Cの所にある沼八幡宮




つづきにします

























































以下・再編集中です。







 平生町の文島にある文島龍神社(現在、百済部神社)。

 文島は古記録によると府見嶋とも書いている。

その文字からわかることは『ふみしま』と呼ばれていたこと。

 麻里府の対岸にあることから、麻里府を見る意味によって府見嶋と言ったのだろう。

 この島の別名を龍宮ともいう。麻里府の海域にあって今なお絶景である。

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 防長風土注進案(天保年中の編纂)より。

 熊毛郡上関御宰判

 麻里布

 この浦はむかし歌人の遊覧せし所にて、諸国にも稀なる絶景なりしこと萬葉集に詠まるる濱清きの歌にても知られ候。

往古は今の平生、竪ヶ濱、田布施までもこの浦より続きたる内海にて、與田、新庄、柳井へも汐ゆきめぐり、

與田の阿古山は神武帝の御宇湧き出せし島なりと閭里に言い伝え候。海岸松生ひ続き六つの大嶋三十四の小嶋ありて

かの奥州松嶋にも彷彿たりとそ、しかるに物換り星移りて山崩れ潮去りて滄海田園と變し、佳景もやや失い行きて、

只わずかの松原に麻里布の名のみ残り候。人島、玖珂島、野島など、古き島の名を伝へ、

文島、アタタ、歌ヶ小嶋は海中にあって古への面影まさにゆかしまれ候。


 萬葉集十五ノ巻 (防長風土注進案に記録されているものを引用した)
 周防国玖珂郡麻里布浦行之時作歌八首 (以下、新字体に変換)
 3630
 ま梶貫き 船し行かずは 見れど飽かぬ 麻里布の浦に 宿りせましを
 3631
 いつしかも 見むと思ひし 粟島を 外にや恋ひむ 行くよしをなみ
 3632
 大船に かし振り立てて 浜清き 麻里布の浦に 宿りかせまし
 3633
 粟島の 逢はじと思ふ 妹にあれや 安眠も寝ずて 我が恋ひ渡る
 3634
 筑紫道の 可太の大島 しましくも 見ねば恋しき 妹を置きて来ぬ
 3635
 妹が家道 近くありせば 見れど飽かぬ 麻里布の浦を 見せましものを
 3636
 家人は 帰りはや来と 伊波比島 斎ひ祀らむ 旅行く我を
 3637
 草枕 旅行く人を 伊波比島 幾代経るまで 斎ひ来にけむ
 
 
 夫木集     光俊朝臣
 濱清き まりふの浦の 汐風に 浪こそあかれ 數も知られす
 
 四本こそ うゑそめつらめ 生ひそハる まりふの浦の 松のむら立

 
 細川幽齋家集
 まりふの浦を見るに網の多くかけほしてあれハ まなこちにあみはりわたしもてあそふ まりふの浦の風もたえつつ

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 国道188号線を光市方向から来ると、梶取岬(かんどりみさき)という所がある。
 その岬を過ぎると、いよいよ唐戸水道への進入が間近に迫る。
 写真中央の饅頭形の島を阿多田島(あたたじま)という。前方後円墳があり、麻里府ノ浦の顔といった存在である。
 万葉歌の妹とは、その古墳の人物(女王)を言っている。麻里府の「まり」はその女性の象徴でもある。

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 麻里府漁港から平生方面を望む。唐戸水道はこの先から始まる。
 遠浅干潟が大部分を占め、潮の干満によって船の航行が制限された。
 よって、麻里府で潮待ちをする必要があった。万葉歌のとおりである。
 先を急ぐなら、室津上関方面へ迂回すればいいが、万葉歌人達には唐戸水道は故郷でもあった。
 故郷の出入り口に位置しているのが麻里府ということになる。

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 麻里府の別名を往古は「歌の津」とか「阿多の津」、というふうに呼んでいたようです。そのことは万葉集に歌で記載してあります。
 ただ、現在はべつの解読になっており、「にきたつ」と読んでいます。
 万葉集に心得のあられる方なら、「にきたつ」と言えばすぐにわかるはずです。
 そもそも「にきたつ」という地名は実在しておらず、現状では諸々の記録を参照して、推測で指定してあります。
 万葉集にある「にきたつ」の文字を拾い出してみますと、熟田津 飽田津 和多豆 柔田津 たくさんの文字があります。
 現状ではこれらを一括して「にきたつ」と解読しています。
 そう読んでいる背景には、訓注に「にきたつ」と読むとあるためですが・・・昔の人は罪なことをしたものです。
 ここで三首を解読して載せておきます。すべて唐戸水道を詠んだ歌です。

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 万葉集 巻第一  八番歌
 熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜



 田布施町麻里府漁港にて。
 「歌の津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ込みな」
 なぜ歌の津なのかは、神花山古墳と阿多田古墳に関連しておりまして、両古墳は歌の女王だからです。
 その女王の眠る麻里府の浦は歌のふるさとであり、万葉歌人達の歌の競演場でもあったようです。
 「さぁ漕ぎ込もうよ」というワクワクしてくるような活気に満ちた素晴らしい歌です。
 「漕ぎ込みな」の部分は「漕ぎ恋な」かもしれませんが、万葉時代の恋の意味は現在の恋愛の恋とは意味が少し異なりますので、ここは「漕ぎ込みな」と解読したほうがいいと思います。      (解読・管理人)

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 万葉集 巻第三  三二三番歌(長歌の反歌)
 百式紀乃大宮人之飽田津尓船乗将為年之不知久



 平生町水場にて。防波堤の指している島が阿多田島。
 歌の意味は、「大宮人たちが麻里府ノ浦で遊覧したというが、年もわからないほど遠い昔のこと」・・・という内容。
 この歌は長歌の反歌(かえしうた)になっています。(解読・管理人)

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 下の3枚の写真は連続になっています。麻里府漁港側から見た阿多田(あたた)半島であり、阿多の津です。



 阿多田島。前方後円墳があり、麻里府ノ浦の顔といった存在。
 阿多田古墳を追求していくと、初代の推古天皇陵になってきます。改葬されているんです。

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 本来は砂州が浮沈していたと推測される半島です。。中世の頃、塩田利用に使われたことが記録にあります。遠方の山は室津半島の皇座山(おうざさん)。

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 工場の建物の左側にある丘に神花山古墳があります。残っていた遺骨から20代前半の女性であることが証明されています。歌の女王です。
 遠方の高い山、左から二番目が大星山。神武天皇を祀る箕山があります。

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 大星山から見る阿多田半島。 (撮影 平成12年頃)

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 「にきたつ」の歌に戻りまして、次の文字は「やわた」です。

 万葉集 巻第十二  三二〇二番歌
 柔田津尓舟乗将為跡聞之苗如何毛君之所見不来将有



 流れエビス堂にて

 (大意) 八幡の難所で舟を操る君の自慢話しは聞き飽きましたのに、どうしてお見えにならないのでしょう(遠くへ行ってしまわれた、という意味)。
 
 上の写真は現在の「からと水道」跡、八幡の瀬戸です。
 右側に延びる土盛り土手は、かっての堰跡と推測されます。
 からと水道は八幡で直角にカーブします。往古は難所だったらしく、今も民謡となって残っています。
 現地では八幡とも八和田とも書きます。
 この左手に八幡八幡宮がありますから、神社の名は本来の地名をあらわすことを思うと、八幡が本来の文字でしょう。

 往古の遷都はすべてここが基準になって都地の選定がなされているようです。
 播磨灘、大阪湾、紀伊水道は、かっての「からと水道」の拡大版なんです。
 ひいては、古墳も同じようなポイントに改葬されているようです。

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 八幡八幡宮参道にて対岸になる蓮台寺山を見る。
 水道の幅がいちばん狭かったであろうと推測される所です。極めて近接しています。
 この辺りも少しずつ宅地造成が進んでおりまして、10年、20年前とは風景が変わってきています。

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 万葉歌は、あと長歌が二首ありますが、歴史的な内容を知ってからでないと理解できないと思いますので、後の章に送ります。
 「綿の津」(わたのつ)です。八幡から東へ進んだ柳井市余田から新庄の辺りですね。

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 では、ふたたび麻里府に戻ります。

 防長風土注進案
 熊毛郡上関御宰判
 ● 別府村
 別府と申すは往古本府より手の届き難き所は、何国にても別に府を立てられ候名と申す事に候、當村もその名の残りたる由、古老申し伝へ候。
 
 古跡
 高岸鳴川と申す所に守屋大臣屋鋪跡といへるあり、(途中敷地規模省略)又、岩かねと申す所にかの大臣の墓所有之候、折々奇怪之事とも御座候。  (満野長者旧記に物部守屋大臣とあります。)

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 では麻里府地域の神社から見ていきましょう。


 田布施町 麻里府  麻里府住吉神社   



  麻里府住吉神社

 厳島大明神 住吉大明神
 祭神 市杵嶋姫 中筒男神
 祭日 六月十七日 二季社日

 

 麻里府住吉神社   
 麻里府小学校前の丘の上にある。境内からは麻里府の海域を広く望むことができる。この神社の現在の社名は一社だけだが、古記録を見ると一社で二社の顔を持っていることがわかる。

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 田布施町 戎ヶ下菅原神社  



 麻里府の戎ヶ下(えびすがした)にある菅原神社。このページの冒頭に載せている文島の対岸に在り、両神社は麻里府ノ浦を挟んで向かい合うかたちで存在している。風土注進案には麻里布山天満宮という名で祭事の記録に登場している。菅原神社は比較的新しい年代の神社と解釈されているが、菅原になる以前があり、分析すると、年代の新しい神を祀ることによって隠ぺいされてしまった、ということになる。




 戎ヶ下菅原神社。 前面方位は阿多田半島を指している。二つの前方後円墳の在る半島だ。正確には阿多田半島にある巨石に至る(内リンク)。拝礼方位は唐戸水道の荒木を指す。




 戎ヶ下菅原神社神殿。 総石造りの神殿はそう多くはない。巨大な石祠だ。前面方位が阿多田半島の巨石(内リンク)を指していることを考え合わせると、神話の「木花の佐久夜姫」に登場する「石長姫」を直感する。

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 浜城地区  妙體神社  



 妙體神社(浜城地区)  麻里府ノ浦を見おろす城山(じょうやま)の中腹にある神社。體の俗字が躰であり、体の字に相当する。今風に書くと「妙体」であり、「すばらしいからだ」といった意味になる。鳥居には「明代社」とあるが、その鳥居は明治時代に建てられた鳥居である。「妙體神社」の名が本来のもの。この小さな神社は国生み神話を語る際に必要になる。幻の麻里府大権現のあった所を証明してくれる神社でもある。祭神は、国之常立尊、イザナギ、イザナミ、を祀る。





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 平生(ひらお) 
 玖珂島神社   



 玖珂島神社  古くは海中の島だったが、現在は平生町の町なかに浮かぶ丘になっている。


 熊毛郡上関御宰判
 ● 平生村
 平生は往古このあたり田名、別府の沖より立ヶ濱、波野、與田、柳井、大嶋、鳴門ゑ潮大回りて、萬葉集に出たる麻里布の内海なりしか、天地老いて山河形をあらたむるならひ、いつとなく干潟となり、二三里が間終に田園市井と変じ候。中にもこの平生は麻里布四十嶋のうち、野嶋、玖珂嶋両山の土石をもって毛○就ョ公御開作御築立、慶安四年より萬治二年迄に御成就と聞へ候。然るに平生と申し候事は御開作以前浪風真砂を吹きあげておのづから須をなし、松生ひ濱清く人も住みけるか、その高き所を高須と呼び、須の尾長く平らかなる所を平生(尾)と唱へしよし、延寶六年宇都宮由的翁、野嶋明神釣鐘の銘に平生と誌されしより生の字に変わり候。
 
 山之事
 玖賀嶋山
 高さ直立九間、村の西に有之、西方半は岩国御領竪ヶ濱之内において、市中之真中に有之人家隙なく取り巻き候、此の山往古は竹多く生して弓に製し候由、弓の古名クガといへるより久賀嶋と唱へしよし昔より申しつたへ候。(名の文字が異なるも、原典に従った。)




 玖珂島神社   遠方に見える平たい山は石城山。 その手前には波野行者山も見える。

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 平生(ひらお) 
 野島神社  



 野島神社  この丘も玖珂島と同じく古くは海中の島だった。丘の周囲にはエビス祠が多く取り巻いている。


 野嶋山
 高さ直立六間半周囲八拾六間、村之南に有之、此の山はむかし細き竹生ひ茂りて矢の?に製したるより?嶋と呼ひ來りしより玖珂島の説に同しと申し伝へ候。






 野島神社



 万葉集 巻第1  12 
 吾が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠そ拾はぬ
(ある歌に云ふ、「吾が欲りし 子嶋は見しを」) ・・・・・(「あるは頭に云ふ」が従来。類聚古集では頭の部分が「歌」になっている。・・・・・ 

 写真は平生町六枚付近にて撮影。地名の「六枚」は塩の生産量を表わす意味です。
 野島は唐戸水道の東と西で同じ名の島が二つあります。
 ところで、この辺りも数年前の写真と比較してみますと、急速に家屋が建ってきているようです。そのうち野島は街のなかに埋もれてしまうでしょう。

 歴史としての麻里府は、度々所属する郡が変わっています。風土注進案の麻郷の条に、麻里府は「・・・玖珂の郡にて御座候處其後熊毛郡に属し候・・・」とありますように、半ば浮いたような地域だったようです。


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 ここで管理人の好きな万葉歌を一首載せておきます。

 写真は南周防大橋。かっての麻里府ノ浦を横断しています。
 橋のたもとには駐車場や小さな公園も完備しています。車をおりて橋を歩いてみるのもいいでしょう。



 (大意)
 都辺に行く船よ、心あるなら伝えておくれ、皇子が薦を愛でられたという先代の地が荒れていくよと。 (訳、管理人)


 (お侘び)背景色の関係で歌の文字の色が異なりますが、歌の優劣ではありません。



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