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古事記より

故、豊国の宇沙に至りし時、そこの土着民、名を宇沙都比古(うさつひこ)

宇沙都比賣(うさつひめ)の二人、足ひとつの騰がりの宮を造りて大御饗たてまつる。


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闇無濱神社
くらなしはまじんじゃ

鎮座地 大分県中津市角木

N 33度36分39.7
E 131度11分32.6
位置精度 +- 3m
下の鳥居写真撮影地点で計測















赤矢印の堤防の向こう側は中津川河口です。

埋め立てが進んだ今は河口ですが、昔には堤防の辺りまで海だったようです。























闇無濱神社 方位線分析

拝殿拝礼方位 100〜102度


拝礼方向



拝礼方向は愛媛県の佐田岬半島を指しています。これは指針になります(後述)。




前面方向



前面方向は飯塚市の鹿毛馬(かけのうま)神籠石を指しています。下の図は拡大図です。



この線は100度で引いています。101度とするなら極めて正確に神籠石を指しています。

この鹿毛馬神籠石を指していることにより、闇無濱神社の由来のナゾが解けるのです(後述)。




社殿に向かって右手方向






耶馬溪の青の洞門を正確に指しています。由来より古い洞門という気がします。



前述した拝礼方位線は愛媛県の佐田岬半島を指していました。

この右手方位線は鹿児島県の佐多岬を正確に指しています。

この指針があることにより、闇無濱神社は古来より動いてはいないことの証明です。




社殿に向かって左手方位線



通称神武東征物語の侵攻上陸地点である萩市を指していることにより、

この闇無濱神社が通称神武東征と関係していることの証しです。







豊日別宮のナゾを解く

闇無濱神社を研究すると、豊日別宮(龍王宮)のナゾに行き着きます。

私が調べた豊日別宮の由来を大雑把に説明しますと、建武元年(1334)に

転々と動いたように記してあります。今の中津城の築城に関係しているようです。

闇無濱神社がその豊日別宮だという考え方もありますが、闇無濱神社は古来より

動いてはいないことは先の方位線を見てもわかります。そうすると、豊日別宮は

闇無濱神社へ合祀された可能性が多大になってきます。


下の写真は中津城を河口の中洲から撮影したものです。少し不思議に思いませんか?

もし私が城を造るなら絶対にこちら側の河口の中洲に築城します。

そうすれば川が天然の掘りになって強固な城造りができます。

なぜ中洲に造らずに目と鼻の先とも言える川べりに築城したのかということを思う時、

豊日別宮が見えてくるのです。








闇無濱神社の前面方位線は鹿毛馬神籠石を指していることは先でも解明しました。

上図の赤糸の上に黄色マーカーを入れている所が神籠石の地点です。

地図上の文字の関係でほんの少し上下していますが、鹿毛馬神籠石と

御所ヶ谷神籠石は東西にほとんど同じ経線上にあります。

御所ヶ谷が東側、鹿毛馬が西側です。それをよく覚えておいて次に進みます。





御所ヶ谷を起点として差し金を置いてみますと、ピタリと出ました。

正確性を証明するため、このまま動かさずにそれぞれの地点を拡大してみます。




赤◯印は、線刻画のある穴ヶ葉山古墳です。






御所ヶ谷神籠石です。






ご覧のように中津城の境内になります。


中津城の境内にはたくさんの神社が祀ってあります。

城井神社、扇城神社、中津神社、金刀比羅宮、奥平神社、等々、それらは、この地を治めて

いた宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)という人の霊を慰めるためのものであるようです。


天正十五年(1587)五月、豊臣秀吉は宇都宮鎮房に豊前国を明け渡し四国の今治へ

移るよう書状を送ります。鎮房としては先祖代々の地を明け渡すわけにはいきません。

秀吉のご朱印状を返上します。そこで秀吉に豊前六郡を与えられた黒田孝高と戦うことに

なるのです。鎮房はその戦いには勝利しますが、和睦の酒宴の席で謀殺という卑怯な

方法で殺されます。黒田は鎮房の霊を鎮めるために城井大明神として城内に祀ります。


そうした謂れがあるようです。


もし、豊日別宮が中津城の境内にあったとしたなら、

闇無濱神社が鹿毛馬神籠石を指し、豊日別宮が御所ヶ谷神籠石を指していたことになります。

御所ヶ谷神籠石は陽の出ずる東側にありますから、そこを指していた豊日別宮という名も納得できます。

闇無濱神社と豊日別宮、両方の方位線が交わる所に宇島(うのしま)があります。です。


そして、川の対岸にある八幡古表神社が天仲寺古墳を指し、豊日別宮が穴ヶ葉山古墳

指していますから、古事記に記載されている2人の人物として捉えることができましょう。

穴ヶ葉山古墳の線刻画は「線を刻め」と言っているような気がしてなりません。


以上の分析結果を見まして、

豊日別宮は中津城内にあった可能性があり、闇無濱神社へ合祀されたのだと思います。

私の推測ですが、たぶん、築城以前の遠い昔に合祀されていた可能性があります。

闇無濱神社という名称については、明治時代に改称されたようになっていますが、

万葉歌にあるのですから、それは明治政府の隠密作戦というものでしょう。

昔から闇無濱神社という社名だったと私は確信しています。




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