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 石城山 熊毛インタールート    




 山陽自動車道・熊毛インター料金所を出た所の交差点です。
 画面の後ろ側が料金所になります。

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 前の1図から百メートルもありません。通り過ぎないように。

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 交差点名、「光市八幡所」。

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 通り過ぎないように距離計に注意。

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 三輪神社に参詣した時に右折した交差点です。今回は直進します。

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 直進してしまう可能性の多い所です。距離計に注意。
 なお、ここを直進すると佐田に通じています。今回は右折です。

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 前の6図から七百メートルしかありません。通り過ぎに注意。

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 前面に見える山の麓を小倉と申しまして、万葉集にも「小倉の山に鳴く鹿は 〜 」という歌があります。
 地名として、塩田・三輪・稲葉・三鍛冶屋・源城・十王・小倉・安寧・伊賀・佐田・など錚々たる地名が連なります。

 画面右端に見える白い建物は「三国志城」といって古代中国の歴史館になっています。
 お茶や軽食に立ち寄って、古代中国の歴史を観るのもまた面白きかなです。


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 石城山には車で登れる登山道が2本あります。一つは前回ご案内した田布施線です。(内部リンク)  
 田布施線は離合困難な所が多くありますが、この三鍛冶屋線は比較的広い道です。

 途中、佐田古道を経過します。トータル距離 10・7キロ地点に道の両側に登り下りしている細い道が昔の佐田〜石城山の古道です。今は廃れて荒れ果てていますが、万葉人達も歩いたと思われます。下り方向は佐田の中心部へ下り、登り方向は神籠石の北水門の所に登っています。(注意・上の写真は無関係です。)  

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 大波野〜佐田までの万葉古道 (内部リンク) 

 佐田〜石城山の万葉古道 (内部リンク)  

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 トータル距離 11・7キロ地点で田布施線と出合います。


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 「ヤマトタケル」のページと重複しますが、もう一度載せておきます。


 石城山には神籠石(こうごいし)遺跡と呼ばれているナゾの列石群があります。山の八合目付近を鉢巻き状に取り巻いている石の列です。何キロにも及ぶ列石群が丘を越え谷を越えて山を取り巻いています。何に使われていたのか、はっきりしない部分がありまして、発掘しても、たいした物は出ていません。現状では山城の跡だろうと解釈されています。その背景には朝鮮式山城があるわけですが、石垣状に積み上げて防壁とした朝鮮式山城と、石を並べて繋いでいっただけの神籠石とでは根本的に構造が異なります。神籠石を戦乱などの有事に使うには実戦向きではありません。



 石城山神籠石。 地表面の石の高さ、50センチ平均。 石一個の長さ、50センチ〜最長2メートル30センチ。 石の奥行き、20センチ〜50センチ。 この寸法は石城山の場合であり、久留米の高良山神籠石など長さ3メートル、奥行き1メートルを越える大きな石もある。 列石の総延長は、どこの遺跡も約2キロ半から3キロメートル前後というところ。 列石の囲いの中は、自然の山の地形そのままで、平坦な場所は極めて少なく急斜面が多い。 列石の表側の土中(現在、遊歩道になっている所)に規則正しく整列した柱穴の跡が発掘されている。
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 神籠石は山城ではなく別の使用目的で築造されています。では、古記録はどうかと申しますと、神籠石に関する記録は、まったく残っていない(記録されていない)わけです。そうしたこともあつて、半ば無視されているような遺跡です。
 神籠石は使われた年代を一時期に絞らず、相当に長い歳月で見たほうが良いと思います。使われた年数が長いんです。その証拠に現状を見ますと、石城山の場合、今は神域です。列石は結界の役目をしています。
 では、山城はどうかと言うと、山城としても使われた年代があるようです。その根拠は、神籠石の列石の上に石垣が築いてある所もあるからです。ただし、防壁としての石垣として考えると、高度不足です。城の石垣は、高さを持って弓矢の威力を落とす意味もあります。石城山の場合、山城というよりも中世の寺院で利用されており、山中の至る所に僧坊跡の遺跡があります。利用された年数が相当に長いんです。だから、どの説も間違ってはいないわけです。
 
 数年前、私は神籠石を巡る旅をしておりましたところ、偶然ある神籠石の発掘現場を見ることができました。そこで出土する石垣遺跡は、破壊したうえで土を被せたものでした。土を被せて列石を隠しているんです。結局それは神武遠征につながってくるわけですが、神籠石が最初に築造された目的は、綿花の樹園です。列石は柵の礎石として並べられたものです。柵の下に石を埋めて(並べて)おかないと、害獣は地面を掘って侵入しますから、害獣避けが主目的だったと思われます。それが、やがては規模を誇る構築方法に変化していったと考えます。
 綿花は古代には国家機密です。どこでもかしこでも栽培されると貿易の価格に影響してきますから、極秘で栽培されていました。そうした根拠は、インカなどの古代史を見ても国家機密にされていたとあります。
 綿花は万葉歌にも「綿摘み」という表現で詠まれています。(内部リンク)   


 内部リンク  「神籠石紀行」の目次     



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