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 まぼろしの麻里府大権現

 麻里府には、かって麻里府大権現と呼ばれた神社が存在していました。その所在については、あまりにもナゾが多く、まぼろしの神社、とさえ言われます。
 古記録をあさってみますと、防長風土注進案には口伝として記録してありますが、それより約百年古い防長寺社由来には見えません。その背景には、防長風土注進案は風土記的な要素が濃く、語り伝えなども記録したのに対して、防長寺社由来は現存する社寺を重点に調査したためと思われます。
 では、防長風土注進案に記録してある麻里府大権現の記録を載せてみます。

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 麻里府大権現
 祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
 由来 麻里府大権現勧請年序つまびらかならず候へども、天文年中までは百済部と申す所に鎮座。祀官○○○○(個人情報を含むため省略する)と申す者の代まで数代神職にて御座候ところ、○○壮年の頃より仏法帰依し、真言宗に相成り居候内、社は大破に及び再建の志願ありし候ところ、戦国の時節にて再建相調い難く、よんどころなく今の八幡宮へ御相殿にし候由、右社地百済部社において河内と申す所、旦御供井と申す筒井等も有りし。地名舊跡今に相残り居候。先年より九月九日御神幸の節は麻里府の里人参詣奉り崇敬候由、○○こと天正の頃草庵を結び真宗に転派し法名了善と號し、只今水場の浦教相寺の開基にて御座候。御相殿に相成り候節、大行司金幣一同了善より寄付し、大行司の木像は只今に至るまで教相寺より別れの家筋の者八月九日両度の御神幸に麻上下着用にてお供し候。其の後、教相寺六世観空の代に自作の神輿寄付し候ところ、年数相経ち氏子中より神輿買い下げし候につき、古き分は往古阿曾権現深山に鎮座ありし候節彼の社へ寄付し只今厨子に相成り居候。寶暦年中教相寺より金幣修覆(復?)相成り、大行司の儀は教相寺家筋の者より只今に至るまで修覆(復?)し来たり候。 (古文にて部分的に現代の文に変えました。著者。)

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 この記録のなかで問題となるのが「天文年中までは百済部と申す所に鎮座」とある部分です。百済部のどこに在ったのだろうと尋ね歩いてみました。現在百済部に残っている跡地は、百済部神社のもので、今でも本祭祀の時にはそちらで行なわれていることから別ものです。(文島と合祀されている)
 由来記の天文年中という一節を考えてみますと、防長風土注進案の記された年代は天保時代です。天文から天保までは約三百年もの隔たりがあります。それを今に換算すると、元禄の頃のあなたの地域を記せ、と言われるのと同じことであり、よほどの資料でもないことにはわかりません。
 麻里府は、かって行政区画の明確でない地域でした。そうした事情は古記録にも残っており、麻郷(おごう)の記録にこうあります。・・・麻里府は・・・「玖珂の郡にて御座候ところ、その後熊毛郡に属し候」・・・と記してあるように、行政を転々と替わっています。そうした事情が終にはわからなくしてしまったのでしょう。
 やはり麻里府大権現はまぼろしの神社かと、あきらめ半分で歩いておりますと、大事なことに気付きました。記録に百済部とあるので惑わされますが、麻里府とは本来百済部の対岸を言います。そうすると、田布施町麻里府地域のどこか、ということになりはしないか、しかし跡地でも残っているならまだしも、まずその見込みはありません。
 もう一度由来記を見ますと、八幡宮へ御相殿にした、とあります。八幡宮の名は記載してなく、八幡宮もたくさんあるわけです。
 百済部神社の由来記を見ると、麻里府大権現は曾根八幡宮へ合祀したと記してあります。ところが、祭神がいません。合祀したのであればイザナギイザナミを祀っているはずです。後述しますが曾根八幡宮は阿曾と連携しており、それはそれで素晴らしい神社なのですが、麻里府大権現との直接の連携はしていません。
 麻里府大権現とつながった八幡宮はないかとあちこちと神社巡りをする日々が続きました。これは何年も後でわかったことですが、「はちまんぐう」と読むからわからないわけです。
 それにも増して、この記録は複数の社寺の話しがごちゃ混ぜに記してあります。結局、記録した当時もすでにわからない部分が多かったのでしょう。それとも何かの事情でカモフラージュしたのかもしれません。

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 由来記には教相寺を特筆してあります。教相寺の方位を調べてみますと、前面方位が阿多田島の西岸。左方位が勝間の熊毛神社になっています。こんどは熊毛神社の方位を見ますと、前面方位で教相寺とほとんど同じラインになっています。大きな特徴としては、両方の社寺とも中間地点に三輪(古称・「美和」と古記録にあり。)があります。今の光市三輪です。方位線の通過する所は、三輪神社への登山口になっています。
 三輪神社の祭神は大物主神です。大物主神については後の章でも説明しますが、神話では「美和の大物主の神」で知られています。川を流れ下って結婚したという、まあ恋愛の神さまといったところです。
 大物と書いて「だいぶつ」とも読めます。大仏です。それは彫刻師の意味を持っており、ダイコクさまと同神です。ダイコクさまは、いつも打ち出の小槌を持っています。それは仏像の彫刻を表しています
 そうしたことを暗示しているように教相寺の由来にこんな一節があります。・・・「・・・数代麻里府大権現の神職たりしが○○代に至りつらつら神仏一体のことわりを案ずるに、偏に仏法に帰せしめんか為の方便なりと・・・・・。」・・・今にして思えば、仏像一体と言えども、ダイコクさまご本人の手で彫られた像ですから、それはそれはたいへんだったことでしょう。
 ダイコクさまは実在した人物をモデルにしたらしく、私が周防の社寺をあちこち巡っておりますと、ダイコクさまの手になっていると思われる像はまだいくつか現存しているようです。ダイコクさまは、たぶんインド人じゃないかと思います。
 結局、教相寺はダイコクさまと繋がっていることが見えてきました。由来では天正時代の創建ということになっていますが、私が調べた限りでは、もっともっと古い寺です。およその創建年代は推定できますが、それを証明する意味において今少し研究してみます。



 教相寺

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 ふたたび麻里府地域に目を向けますと、戎ヶ下(えびすがした)という地名の所があります。教相寺と海を挟んで対岸になる地域です。戎ヶ下という地名を解読してみると、「エビスの下」という意味になります。エビスさまの下にある地域というわけです。下の持つ意味を考えると、エビスさまは上のほうにいらっしゃったことになります。
 戎ヶ下地域の上の方には城山(じょうやま)という山がありました。戦中戦後の頃に山全体を買い取られ、土石の採取に使われました。土石の採取は今もなお続いており、山はもうありません。
 古老の話しによると、その山頂には城跡と言われた石積み遺跡があったそうです。その石積み遺跡こそ麻里府大権現の跡だったんです。

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 最終的に決め手となるのが陰陽道です。ここでは理屈を抜きにして、妙體神社と麻里府住吉神社とを線で結んでみます。地図上で線を引いてみますと、その線上に城山があります。城山山頂を通るわけです。そして、その線は南南西と北北東を指しています。線をぐーんと伸ばしてみますと、線上には多くの社寺が連なっています。お互いに連携し合っているんです。
 ということは、妙體神社と麻里府住吉神社は、麻里府大権現の鬼門を守護していた神社でもある、ということになります。主無き後も、しっかりと守って来て、こうして証明してくれています。
 陰陽道に関しての詳しいことは又の機会にさせていただきますが、日本古来の陰陽道での鬼門は、南南西と北北東です。それを証明しているものとして、有名な祝島神事があります。祝島は初代夜麻登の鬼門に位置している島です。往古に始まった神事が今もなお続いている由緒ある祭りです。

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 麻里府大権現の在った位置が見えてきたところで、教相寺と対をなして指し示している寺が、もう一寺あります。その寺は曽根八幡宮のすぐ近くにあり、教蓮寺と申します。正しくはその寺が城山を指し示していることから、詳しく計測してみますと、意外なことがわかってきました。
 その教蓮寺は平生町佐賀の白鳥古墳と連係しており、白鳥古墳の改葬されたルートを示している、という内容です。もちろん麻里府大権現の在った場所とも関係しています。
 改葬ルートの内容を理解するには、多くの社寺をも理解していないと、何のことかさっぱりわからないということになりますので、周防の社寺や遺跡をひととおり見て歩いて、改めて解説することにします。
 今は、とりあえず教相寺と教蓮寺は歴史上、対をなして連携している寺であるということを知っておいてください。また、それは曽根の板碑(曽根石板)とも関係しています。



 教蓮寺   (平生町曽根)

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 さて、麻里府大権現はエビスダイコクに関連していたことが見えてきました。では、いつごろ廃社になったのだろうと、あれこれ調べてみますと、古事記のイザナギイザナミ神話にこんな一節があります。

 (原典を基に著者解読)
 ・・・・・(途中より)・・・・・かくのごとし後の詔(みことのり)、汝は右より廻り逢え、我は左より廻り逢う、竟(境?)をもって廻り時、イザナミノ命先に言う、「あな にやしー えーおとこを」、各言い終えし後、その妹告げいわく、女人先に言うは良からず、しかいえども、汲み井戸におこして生れし子、水蛭子、かくのごとし子は葦舟に入れて流し去る。

 有名な一節です。大事な部分はたくさんありますが、特に「水蛭子」、これをどう読むかで大きく変わってきます。現状では「ヒルコ」と読むのが大筋です。ところが、蛭子は「エビス」とも読めます。「みずエビス」とか「みなエビス」と読むとどうなるでしょう。葦舟に乗せて流したのはエビスの御神体ではないか、ということになります。それを暗示しているのが次の言葉です。「あな にやしー えーおとこを」・・・・・「ああ 笑顔の素敵な いい男性を」・・・・・そう言って神さまにお願いしている場面です。こうしたことを見ると、物語に出てくる水蛭子とは「エビス」の御神体を意味していることになります。
 後に何か急なことでもあったんでしょうか、エビス像を葦の舟に乗せて流します。それは天孫降臨と関連しており(後の章で解説します。)、麻里府大権現の終焉の場面です。
 葦舟に乗せて流されたエビスさまは唐戸水道の満ち潮に乗って、水道の奥へ奥へと流れて行きます。流れて行ったコースには、今でもエビス祠や堂宇がいくつも祀ってあります。やがて水道のいちばん奥地である八幡の瀬戸に流れ着きます。流れ着いた地点には、今でも「流れエビス」と呼ばれている祠堂が残っています。そこから山手へ少し登ると、イザナギイザナミを祀る多賀神社があります。

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 平生町六枚付近から麻里府ノ浦を介して望む城山跡。矢印Aの部分に城山はあった。
 矢印Bの山よりも、はるかに高かったと古老は語る。矢印Cの山は山頂が平らになっており、
 かって何かが在ったと思われる。矢印Dは妙體神社の在る位置。

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 平生町水場より望む城山跡。古老の話しなどを基にして、山の大雑把な大きさを描いてみた。



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