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石城山 神籠石 3
いわきさん こうごいし
東水門へ
北門からの昇り神籠石です。
列石の上昇角度は約 20度平均です。
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北門から東へ少し登ると、『 夜泣石 』と呼ばれている、人の顔をした岩があります。
じっと列石を見つめていて、なにか言いたげです。
荒削りですが、顔の特徴をよくとらえています。
石の彫刻はこうするんだと教えてくれているかのようです。
凄いリアルで、何千年もこうして列石を守っているのかと思うと、
不思議なパワーを貰ったような気がします。
誰も皆、気味悪がりますが・・・。
夜泣石の裏側です。
夜泣石の位置
N 33度 59分 18.9
E 132度 02分 19.0
位置精度 + - 10m
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こちら側の土砂の中にも列石は埋もれています。
私が立っている数メートル先から、こちら向きに撮影したのが下の写真です。
向こうの遊歩道は丘状になっています。
列石はその丘の起伏に合わせて並べてあります。
埋まっているのにわかるのかと言われそうですが、
それは丘の向こう側の列石線を見ればわかります。
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列石の上昇角度の平均値は約 20度です。
北水門のように 38度の急な所もありますが、平均的には 20〜25度です。
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土塁跡というけれど
申し訳ありませんが、私は土塁跡とは思っていません。
侵略された後の捕虜を使った破壊工作によって土石で埋められたのです。
略奪した綿のタネなどは本国に送ったことでしょうけれど、
棉が育つ温暖ラインを考えると、上手く育ったとは思えません。
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巨大な水甕
土塁の解説版が立ててある所の谷側を撮影したものです。
ここは自然の地形を利用した大きな溜池にしてあったようです。
以下、南側から順に撮影してみました。
南端です。
ここで向こう側の丘と繋いで溜池の堤にしています。
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中央部分です。
溜池にする充分な強度はあります。
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北端です。
こちら側には堤がありません。
それは破壊工作によって欠壊させられたのでしょう。
爆破欠壊させれば、水は一気に流出して、堤の土砂を押し流し、
こんな形状になるはずです。
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対岸の丘の上から土塁の所を撮影。
縦の溝は発掘調査のトレンチの痕です。
溜池の跡ということを思うと、特別な物は出なかったことでしょう。
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対岸の丘の上から北端を撮影。
ここを欠壊させられたのです。
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底に降りて南向きで撮影。
南側は堤の跡がよく残っています。
溜池跡の位置
N 33度 59分 16.4
E 132度 02分 25.2
位置精度 + - 7m
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溜池跡からの遠望
溜池跡から東北東の方向を遠望した風景です。
矢印の所が重要です。
拡大してみます(下写真)。
およそ合っていますが、少しズレがあります。
これを東水門で計測しますと、ピタリ合います(後述)。
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東水門へ
列石の無い地点。
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東水門との接続
先の溜池跡を通り過ぎて東へ進みますと、
高さ約 2メートルぐらいの石垣が連なっていきます。
上の写真は石垣の北側起点です。
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後ろへ下がって広域で撮影してみた写真です。
以前は、ここで列石は地中へ斜めに沈んで行っていたのですが、
今は手前側で切れています。どうも以前と変化したような気がしてなりません。
いずれにしても、列石は、ここで岩盤の前を通り、石垣へ同化する形です。
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岩盤の上に石が並べられていますが、
列石線はこの岩盤の前を通るラインです。
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逆方向から見た写真です。
向こうに先ほどの列石が下って来ています。
途中で切れて無くなっているのがわかると思います。
以前の列石線は緩やかに地中に沈下していたと記憶しているのですが・・・。
昔のフイルム写真を出してみる必要があるかなと、不思議です。
いずれにしても列石は岩盤の前を通り、石垣のラインと同化、という形です。
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なぜ東側を石垣にしたのかは、ふもとの「からと水道」を航行する船から
よく見えるので、より立派な構えにしたというのが主な理由でしょう。
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この石垣は部分的に崩れながら、東水門へと繋がっています。
石垣の高さは平均的に人の背丈ぐらいの高さで伸びていきます。
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東水門
ここまで人の背丈ぐらいの高さで繋がってきた石垣は、
この東水門で俄然と高く立派な構えになります。
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西水門の雑な石垣と比較すると、美しさは格段の差があります。
西水門から順に改良を加えながら、この東水門へ到達したのです。
改良されてきている、ということを思いますと、
水門は東西南北一度に造られたのではなく、
何年かの使用期間を経て、新たに築造されてきている、ということになりましょう。
つまり、最初は西水門だけで賄っていて、他の部分には水門は無く、列石で囲っていた。
やがて少しずつ水門 (水汲み場) を増やしていった、と結論付きます。
そして最終的に、この東水門で完結するのです。
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東水門の位置
N 33度 59分 13.0
E 132度 02分 25.3
位置精度 + - 6m
180度ですから、石垣は真東へ向いています。
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東水門の前面の現状です。
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東水門からの遠望
55度方向を拡大してみます。
手前の山から順に。
多賀山 多賀神社 (現存)
氷室岳 氷大明神 (現・氷室亀山神社)
高照寺山(こうしょうじやま)名の通り寺院遺跡
それらの遺跡が 55度の方向に一列に並んでいます。
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上下の写真は東水門の排水口です。
土の上に排水口を設けると、水流で土が流されて
崩落の原因になりますし、地面がドベドベになります。
そうした経験を経て岩盤の上に設置したのでしょう。
北水門などは土の上ですから、年中ドベドベになっています。
技術の進歩が見られます。
排水溝の調査図です。
上側の図は北水門、下側の図が東水門です。
旧・大和町史より引用しました。
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岩盤の上の石積み。
東水門の石垣は岩盤の上に積み上げています。
私が立っている所は丸く土盛り状になっていますが岩盤です。
石質が安山岩質で、年数の経過と共にもろくなる弱点があります。
築造された当時は硬かったのでしょうけれど、今はもろくなっています。
岩盤が風化して砂になり、少しずつボロボロと崩れ落ちて浮いてしまったのです。
岩がこのぐらい風化するといったら、いったいどのぐらいの年数がかかるでしょうか。
綿花畑として利用され始めたのが縄文時代から弥生時代にかけてとしますと、
紀元前 1万年前の頃から棉畑としてスタートしているのです。
そう言える根拠として、
神籠石遺跡周辺の大規模集落は縄文時代から発展しています。
想像をはるかに超えた年数を積み重ねて来ているのです。
中世の山城跡だなんて、とんでもない、それは再利用されたに過ぎないのです。
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東水門の上
東水門の上に登ってみました。
中央の奥方向です。
この東水門は坊舎などに利用されなかったらしく、本来の地形をよく残しています。
水門上の地形は、すり鉢状になっていて、溜池だったことがよくわかります。
こうした溜池を再現しているのが、石城山から約 8キロの所にある般若寺の龍神池です。
下の写真がその龍神池です。規模としては、一般家庭の庭池を少し広げた程度の池です。
石城山の水門上の溜池も丁度このぐらいの規模で、棉農園に散布する水を確保していたのでしょう。
先に載せましたように、石城山の西水門や北水門には龍が居ますから、
般若寺の龍神池は石城山の水門(溜池)を再現記録しているのです。
平生町・般若寺の龍神池。
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東水門の南端
私が古代史を始めた三十年ぐらい前には、この先にも石垣が残っていたのですが、崩落したようです。
説明によりますと、岩盤がもろくなって崩落したようです。
画面向こうに見えている石垣は再現した石垣です。
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崩落現場を逆方向から見た写真です。
画面の手前側が再現された石垣です。
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古代の石切り場と思われる所。崩落現場の斜面の上にあります。
石城山は何処でも安山岩の石材が採れる山なので、
石切り場は各所に分散して存在していたようです。
ただ、列石の中に石城山の石ではないのも見られるのは不思議です。
石材の寄附、という感じで持ち寄って築造したのだろうかと思ったりもします。
石城山 神籠石 4 東門 に続きます。
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