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 万葉集 23首を歩く  第2回

 佐田の岡辺       



 たちばなの しまのみやには あかねかも さだのをかへに とのゐしにゆく

 田布施町大波野 (たぶせちょう おおはの) からと水道側から見たもの。
 佐田は画面左側の山の向こう側にある。画面中央の小丘は大波野涅槃像。そのこちら側のふもとに弥生明地遺跡が広がる。
 私は以前、ここから実際に歩いて時間計測をしてみたことがある。この水道跡からゆっくり歩いて約30〜40分もあれば佐田に行き着ける。もし、高齢という年齢的な部分を考慮に入れても、1時間もあれば充分だ。
 ここは大波野神舞で知られる所。
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 橘である周防大島から海路で「からと水道」へ入って行きます。
 本来なら現在の大波野という所で船を降りますが、23首には「み立たしの 嶋の荒磯を 今見れば 生ひざりし草 生ひにけるかも」という一首があります。「かっての荒磯を今見ると、生えるはずのない草が生い茂っている」という意味です。

 そうして推測しますと、この歌が詠まれた時にはすでに「からと水道」は八幡の瀬戸で閉塞していたのだろうと思います。古い堰の跡と思われる遺跡などを歩いて推測してみますと、船を降りたのは現在の柳井市余田の辺りかなと思うのです。

 からと水道は本来、塩の生産が主体でしたから、防波堤のような物はあって、塩の生産のために海水を自由に出し入れできるようにしてあったはずです。八幡の瀬戸もその頃には航行できていたと思います。そこを徹底的に埋めて航行不能にする事によって貿易港としての機能を削いだんじゃないかと思える部分が出てきます。

 堰を架けて海水の流入を止めて放置しておきますと、干潟は自然に陸地に変化していきます。

 生えるはずのない草、ですから、侵略の成功時点で「からと水道」を完全に閉塞させ、機能しなくしたのでしょう。エジプトの壁画文章にも異変を伝える部分があります。現代のように郵便や電話などはありませんから、はるばるエジプトからやって来た使者達が見たものが変わり果てた廃墟だったとしたら、さぞかし無念だったことでしょう。後に残った側近達が再起を賭けて大畠瀬戸に「からと水道」を造りますが、かっての栄華を取り戻すことは叶わなかったようです。

 播磨灘と紀伊水道を「からと水道」に見立てた遷都は、すでにノスタルジー(懐旧の念)と言った面持ちがあります。自分達の先祖の遺骨を周防で拾い、遷都した新しい地に改葬し、新しい都の守護神として崇めます。周防の空になった陵墓跡には神社を建てて祀ります。ですから、改葬された場所は実によく似た場所になっています。そうした流れは古事記に記してあります。

 歌の23首が詠まれたのは、それらの年代のどの部分に相当するのかを考えてみますと、年代的にはそう大きな開きは無いと思います。人の半生分と言いますか、栄えた当時に10代20代だった人が50代60代になった、というところでしょう。歌を詠んだ人々は、かって宮中に仕えた人達です。たぶん、殆んど女性だと思います。その人達を思う時、ある一人の女性が浮かび上がって来ます。戦乱を逃れるためヤマトの子供達を引率して疎開して行った女性達です。戦乱を逃れた疎開生活は一年二年なんて短いもんじゃありません。引率して行った子供達がりっぱに成人してからの帰国だったようです。
 その女性については万葉集のあちこちに登場していますので、また章を改めて研究してみましょう。



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