トップページに戻る  神籠石紀行目次  鬼ノ城・第1部  鬼ノ城・第3部
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



鬼ノ城神籠石 第2部
きのじょう こうごいし

岡山県総社市黒尾・奥坂所在  2014年11月6日・見学


第1部からの続きです。第1部はこちら。


第4水門跡







今も清流のような感じで水が流れています。




ここまでは神籠石遺跡の列石と言えるような物は不確かでしたが、

ここに来て列石が上昇しているのが確認できました。





土手の上から第4水門跡を見おろした写真です。赤矢印が水門跡です。列石が並んでいるのが確認できます。





第4水門跡付近の列石の拡大写真です。

この辺りの列石の加工精度はかなり雑で、適当な石を並べていった感じです。

それは、この遺跡が相当に古いことをも意味しています。

-------------------------------------------------------------------------




高石垣










断崖に石垣が築いてあり、敵の侵入を阻止する目的で築かれたものではないことがわかります。

日神祭祀場であり、また、ふもとからよく見えるので、そうした威嚇の意味もあったのかもしれません。

---------------------------------------------------------------------------------




南側に見られる列石群







遊歩道脇にわずかに見られる列石。

そもそも、これらの列石は樹園や農園を食い荒らす害獣除けの柵の礎石であり、

柵の下に石を並べておかないと害獣は地面に穴を掘って侵入します。石の必要があったのです。

現に今でもこの鬼城山にはイノシシが多くいるらしく、頂上の平坦地付近にはイノシシが地面を

掘った跡がかなり見られました。

この南側には列石をあまり見れませんでしたが、谷の大部分が断崖絶壁という状況が

あるのでしょうか?それともまだ発掘されていない列石群が存在しているのでしょうか?

---------------------------------------------------------------------------




第3水門跡







重量のある石を積み上げています。ひとつの石の高さが数十センチから1メートルぐらいあります。





第3水門跡の上です。

------------------------------------------




南門跡










南門の開口方位は170度であり、ほぼ南へ向いて開いています。


門は、東門・南門・西門とあり、北門は小規模で、南側を重点にしてあります。

もし私がここへ攻め込むとしたなら、断崖絶壁の南側からは絶対に攻めません。

私なら大回りをしてでも尾根続きの北側から攻め込みます。そのほうが攻撃し易いですから。

ところが、尾根続きの北側は殆ど無防備と言ってもいいくらいの装備です。

そうしたことを見ますと、これらの豪華な門は、吉備平野から鬼城山を仰いだ時の

威嚇的な意味が多いのではないかと思います。ふもとからよく見えますから。





こうして全体を見ますと、これまで見て来た水門や高石垣の石と比較すると、石の大きさが小さいです。

屏風折れの石垣など、あの困難な場所に1メートル大の巨石を積み上げた規模から見ますと、

門の石は明らかに石が小さいです。 今で言うと、一般民家の石垣程度の石しかありません。


門というのは顔でもありますから、メートル単位の巨石をデンと据えてもいいです。

ところが、門全体的の規模は大きくても、使われている石が比較にならないほど小さいです。

さらには、石の風化量が違います。屏風折れの石垣などは石の角が風化で丸くなっています。

そうしたことを見ますと、これは第二期に入って築造者が替わったことを物語っているのではないかと思います。







使用尺度に関しては、天平尺と飛鳥尺とで比較計算をしてみたことが資料にあります。

しかし、どちらでもなかったようです。そして、これ以上の検討は控えるとしてあります。


ここではありませんが、石の寸法に、今と同じメートル単位が使われている遺跡があり、

私自身、我が目を疑って再計測してみたこともあります。石の寸法がメートル法でピタリなんです。

そういう遺跡もありますから、寸法に関しては、原点に立ち返って考える必要がありそうです。

そもそも現代のメートル法の根本、原点はどこにあるのですか?(笑)

----------------------------------------------------------------------------





柵列




柱の径は約30〜40p前後、柱の間はほぽ3m間隔。

発掘調査によると、この柱は土塁が、ある程度積み上がった段階で建てられているそうです。

板塀用の柱ということです。しかしそれにしては太い気がしないでもないですが、判断に従います。


列石の外側でも柱穴列が検出されています。その列石外側の柱穴列は神籠石系特有であり、

どこの神籠石遺跡でも検出されています。私個人の見解としは神籠石上の柵の支柱だと見ています。


ここで大事なことは、第一期の害獣除けの柵の支柱の痕跡と、第二期の山城としての板塀の柱の痕跡が

現在において同時に混在していることです。ですから、同じ痕跡でも時間的な(年数的な)隔たりが

あるのだということを認識して考える必要があります。


------------------------------------------------------------------------




内向きの列石




ここだけ列石の面合わせが内向きになっています。通路に対しての面合わせなので内向きになったのでしょう。

この列石は長さが短いので、地形的な関係でそうなったのでしょう。山側を掘ったらもう一列、本列があるかも??






-----------------------------------------------------------------





高石垣の上







この方向の日の出が春の5月頃になります。農作業の開始であり、綿を植える時期でもあります。

したがって、これらの高石垣は神籠石系の第一期に築造され、太陽信仰の祭祀場だったと考えます。

第二期に山城として再利用されたのです。


------------------------------------------------------------------





第1水門と第2水門







第2水門
-------------





第1水門
--------------





これらの水門は第一期に築造されたのであろうことは石の規模を見ればわかります。

現代では水門と呼んでいますが、本来は水汲み場として築造されたのであろうと思います。

綿花や農園には水が必要です。水汲み場としての証拠に、水の出口が高い位置にあります。

水門としてだけの機能なら、水流の強さを考えても水の出口は低い位置にしたほうがいいですから。

よって、ここは本来は水汲み場として築造されたのだと思います。


真ん中の土塁跡を掘ると神籠石列石が並んでいるかもしれません。




-------------------------------------------------------------





列石群










大きい石を使って上面が平らなのは改良型(後期型)の神籠石です。

ここを見た限り、石の上面が平らで、雷山神籠石とよく似ています。

雷山神籠石は初期型の列石と、改良型の列石とが混在しています。

ちなみに石城山神籠石は初期型で、欠点だらけの神籠石です。




------------------------------------------------------------------------




敷石(石畳)










敷石(石畳)は神籠石のある2.8kmの大部分に幅1.5mで敷設されているようです。




この辺りから整備事業で補石された石が多くなります。





上の西門からこの辺りまでは底の部分の敷石が発掘された物で、

傾斜になっている部分の敷石は新たに補石された物です。

撮影者が立っている辺りから後ろの傾斜地は発掘された石です。


こうした新たな追加をどう考えるかは、人それぞれだとは思います。

観光資源でもあることを思うと、多少の追加整備は仕方ないとは思います。


しかし、古代を研究する者として言わせてもらうなら、発掘された時のままで保存、展示してほしいのが正直なところです。

現に、最初に見た角楼跡の石垣も、石垣の最下段一列と二段目が少し残っていたのを大部分を新たに補石してあります。

実際には高い石垣があったかどうかは不明です。そうした意味では、発掘されたままの状態のほうが想像力がつきます。




この辺りは補石した石が多くを占めています。
----------------------------------------




ここも整備事業で補石されています。
-------------------------------------




ここも新たに補石してあります。
--------------------------




門内の敷石は発掘された状態です。
-------------------------------------






石垣の築造半ば??




この石垣も上半数ぐらいを補石してあります。その点を考慮に入れて見学してください。

さて、この石垣と土塁の状態を不思議に思いませんか?中途半端で、まとまりが無い感じです。

本来は土塁の所も石垣だった、又は全部が土塁だった、どちらかだった・・・。


想像すると、敷石が見えてきます。

敷石を取って石垣を築こうとしていたか?

又は、石垣の石を取って敷石にしたか?

どちらかだと思います。


この上の辺りの敷石は発掘された時には部分的に少ない所があって、そこは補石しています。

そうした判断資料として、鬼城山環境事業整備報告書には、発掘された石と、補石した石を

明確に記してありますから、そこから割り出せば石垣と敷石の関連性の推察ができると思います。




第三部に続きます。こちらです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トップページに戻る  神籠石紀行目次  鬼ノ城・第1部  鬼ノ城・第3部
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・