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鬼ノ城神籠石 第1部
きのじょう こうごいし

岡山県総社市黒尾・奥坂所在  2014年11月6日・見学




西門跡より岡山市方面を望む。 画面中央に造山古墳や楯築弥生墳丘墓があります。
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この駐車場までの登山道は砂川公園が登山口になっています。
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このパンフレットは遊歩道入り口に備え付けられています。 今回は下記(赤ライン)の道順で歩きました。



今回、2014年11月6日は南半分を見学しました。赤ラインの部分を歩きました。

これだけでも、見学しながら歩くと半日かかりました。図にあるm表示は距離です標高ではありません。
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● 遺跡は吉備高原最南端にあたる標高399mの鬼城山を中心に所在する。

● 城壁線は山の急斜面と準平原となる山頂の境となる傾斜変換点に築かれ、鉢巻状に一巡する。

● 外側長約2.8kmである。(この距離は他の神籠石系遺跡もすべて共通性がある。)

● 1970(昭和45年)鬼城山で神籠石が発見される。(石垣遺跡はそれ以前から知られていた。)

● 当時、北門の東南にオートバイのモトクロス場があって破壊寸前だったため土地を買収して保護。


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では、歩いてみましょう。



角楼跡







駐車場から角楼や西門までの遊歩道には車イス用の道も備えてあります。

上の写真は角楼と呼ばれている所です。見晴らし台のような感じの所。
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角楼跡の上より見おろす鬼城山の斜面。

鬼ノ城のある山を鬼城山と申します。一般的に鬼ノ城で周知されています。

山の大部分は上の写真のように巨岩で占められており、近づき難い印象の山です。
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角楼跡の脇には土塁の城壁が再現してあります。
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西門







西門は鬼城山(約400m)の頂上近くにあります。

出土した柱穴の規模を基に、地面から上は推測して建ててあります。

屋根瓦の出土は無いとのことで、屋根は分厚い板屋根にしてあります。
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西門の前面です。

楯は発掘調査では出土していませんが、城門の雰囲気を出すために付けてあります。

楯の図柄案は古墳などの出土品を参考にして専門家の方々がアレンジされたそうです。
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城門の構築は土塁の構築が先行しており、その土塁を削って城門の建築が行われているとのことです。

つまり、土塁の方が先に存在していたわけです。そして、城門の建て替え(再建)をした痕跡は無いそうです。

この西門の場合は、焼けた痕跡があり、その炭化材から建材はケヤキと二葉松が使われていたそうです。


不思議なのが入り口のスロープ(段々)です。門内には豪華な敷石が施してあって、このスロープには何も

敷石の類いは出土していないとのこと。私個人の推察ですが、たぶんスロープも無かったのではないかと思います。

土塁に沿って人ひとり通れる分の道があって、狭い通路にしてあったと思います。そうすれば多くの敵が来ても一度には

入れませんから、城門としての機能を考慮するなら、通路は土塁に沿って人ひとりが通れる狭さだったと思います。

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西門に向かって左側。 ここの敷石は新たに補石したものです。
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西門に向かって右側。 敷石のほとんどは整備事業で補石したものです。発掘された石はごくわずかです。
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鬼城山の頂上付近







今回は頂上付近を縦走して南側ルートへ下りました。
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建物の礎石群










頂上付近を縦走した後、分枝点で南側へ下りますと、すぐに管理棟跡と呼ばれる建物群遺跡があります。
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管理棟跡からさらに進んで行くと、倉庫群跡と呼ばれる建物跡があります。


これらの建物群は鬼ノ城のほぼ中央に置かれており、山の斜面を切り開いた所に在ります。城塞や兵舎とするには

場所的に不自然な所です。もし兵舎としても、鬼ノ城の広さに対しての建物規模が小さ過ぎます。さらには倉庫に

使われていた可能性が高いということで、これは収穫した綿花や作物を集積管理していた所だろうと見ました。

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展望所










遊歩道の要所に立てられた道案内を見ながら進んで行くと展望の開けた所に出ました。

大きな岩盤(下写真)の上に位置する展望所で、休憩小屋もあり、暫く一服しました。



自然石がそのまま城壁の役割をしてくれている印象が強い山です。
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屏風折れの石垣










通称、屏風折れの石垣と呼ばれています。




屏風折れの石垣への登りです。







屏風折れの石垣はこんな断崖絶壁に築いてあります。





屏風折れの石垣は断崖に舌状に出ています。真ん中が折れ曲がっているのでそう呼ばれたのでしょう。


下の解説写真は屏風折れの石垣を上空から見たものです。






屏風折れの石垣、先端部にて。
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もし、この屏風折れの石垣が城壁や見張り台とするなら不自然な点が幾つも出てきます。

今まで見て来ましたように、この山は自然石がそのまま城壁の役割をしてくれているような山です。

山の斜面を巨岩が無数に張り出して登山者を遮ります。つまり、高い石垣などを築く必要は無いのです。

このわずかな幅しかない舌状に突き出した石垣を造った本来の目的は何のためだったのでしょうか。


石垣の上は大きな建物を造れるほどの広さは無く、幅は大股歩数で約10歩程度しかありません。

方位を測ってみますと、舌状の突き出し方向は真東です。そうすると、この舌状に突き出した石垣の上から

突き出し方向を見ますと、日の出地点は突き出しを中心に置いて右に左に日を振ります。すなわち、この高石垣は

日の出を観測して農業の時期を知る、太陽信仰の祭祀場だったのではないでしょうか。どうりで豪華です。


神籠石遺跡が綿花の樹園の跡であることはこれまでも度々追究してきました。万葉歌にもありますし、

日本書紀にも風が吹くと綿が飛んで来たというような記述があります。綿の苗を植える時期は五月頃です。

そして、綿花は希少植物であり、企業秘密で植栽されていました。だから人里離れた山で栽培されました。

綿花が地域に多大な収益をもたらしたことは、大規模な集落遺跡(吉野ケ里遺跡と帯隈山神籠石など)の

近くには必ず神籠石遺跡があることからも綿花の収益が地域の発展に貢献していたことは一目瞭然です。





では、土塁や城門は何なのかと申しますと、利用された年代を第一期、第二期、第三期というふうに

分類すれば解決します。第一期は綿花の樹園であり農園として出発し、第二期は樹園跡を利用した山城。

第三期は仏教の聖地として寺院建立などの敷地に利用された、として年代区分すれば説明が付きます。


ただ、すべての神籠石遺跡がそうであるとは限らず、第一期だけで終えてしまった遺跡もあるようです(鹿毛馬・帯隈など)。

この鬼ノ城は神武東征でも明らかにしましたように、侵略された後に侵略者たちの拠点として利用されたことは温羅(うら)伝説

などが証明しています。つまり、その時点で第二期の山城として利用されていたことがわかります。神籠石遺跡はよく白村江と

時期を連立させて語られることがほとんどなのですが、そんなに新しい遺跡ではありません。始発点は紀元前になります。





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東門のすぐ近くに石を集めたような場所がありました。

あたかもこれから使う石をここへ集めたような?感じで散乱しています。集めた、と言うと簡単ですが、

石そのものが大きくて小型重機程度で動かせるような代物ではありません。



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東門跡







画面左側が東門跡です。右側には巨大な岩盤が露出しています。
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開口方位は140度で、南東の方向へ向いて開いています。








解説版によると登山道があるようですが、見た限りではとてもとても登れるような所ではありません。

古代からの土砂は流失してしまったと考えても、かなり険しい所です。そんな所にこんな豪華な門があるわけです。




第2部へ続きます。こちらです。



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