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 侵攻の記録  萩市  志都岐山神社      




 志都岐山神社は萩城のなかにあります。
 築城構成を見ますと神社が中心になっています。    


     
                    (萩市観光課・萩市観光協会発行パンフレットより抜粋)    

 本丸門を入りますと、真っ直ぐ進んで神社があり、天守閣跡は脇の方に位置しています。  
 この築城構成は神社が先に在ったことを物語っています。   
 萩城を建てた毛利輝元という人は信心深い武将だったようで、神の脇に座すことによって神を守護し、
 また自分も神に守護してもらうという典型的な神道の形式にのっとって築城されています。




 本丸門から見た天守閣跡です。
 たとえば近隣の岩国城などは山頂に天守閣があります。
 萩城では指月山(画面右側の山)はたいして使っておらず、詰丸跡と呼ばれる監視のための望楼があったようです。
 なぜ指月山に天守閣を建てなかったのかという意味は、毛利輝元が信心深い武将であったからでしょう。
 神(神社)より高い所に居座ることはできなかったわけです。


   
                  (萩市観光課・萩市観光協会発行パンフレットより抜粋)    


   
                                      (萩城跡入場券より抜粋)  





 古記録にはこうあります。(前文略)〜総体は大沼なりしと云うなり、他国には萩の沼の城とも云うなり。   
 長門名所雑記云、原の松原。 藻塩草云、原の松原。 萩の城下は原の松原の舊跡なり。  

 「萩の沼の城」と呼ばれていた由来で神社が先に在ったことがわかるわけですが、
 萩城は海浜のすぐ脇にありまして、沼と言うには合わない面があります。
 本来が河口に位置しており、葦が茂った沼地だったのかなとも考えますが、
 それにしても「沼地」と「松原」とでは結びつきに苦しい部分があります。
 その不可解な由来は、これから解明していこうとしている「神社群で置いた足跡」を見ることによって解明できます。

 足跡神社群のなかに「熊毛神社」と「沼八幡宮」があります。
 熊毛神社の祭神は「御毛沼命」と「玉依姫」です。

 そうして考えますと「沼の城」と呼ばれた訳は、風景の沼ではなく、神の名から持って来た一字でありましょう。
 ということは、萩城の神社本来の祭神は御毛沼命が主祭神であったのではなかろうかと推察できます。
 どうりで毛利輝元が恐れかしこまって天守閣を神の脇に置いたわけが見えてきます。




 方位を計測してみますと、北2度でした。
 日本の社寺は礎石の上に置く木造建築ですから、何度も建て替える間に2度3度の誤差はすぐに出てしまいます。
 そうした許容範囲を差し引いた方位で分析しますと、下写真のようになりました。

         

 志都岐山神社 拝礼方位・拝殿計測・北0〜2度  

 社殿前面方位(上写真) ⇒ 宇佐神宮 ⇒ 西都原古墳群 ⇒ 宮崎 ⇒ 日南     

 社殿に向いて右方位(下写真) ⇒ 広島城(順次改葬のヤマトタケル古墳跡に築城したと思われる) ⇒ 笠岡・北木島 ⇒  丸亀 ⇒ 淡路島 ⇒ 阪南 ⇒ 橋本市および五條市 ⇒ 度会郡南伊勢町  (広島城については先で書いてみるつもりです。)    



 写真でわかりやすいようにスケールを使いました。実際には定規で線をひいています。 




 この神社は本来、指月山の頂上に鎮座されていたと思います。  
 それは侵攻前の平和だった時代のことです。
 侵攻後に頂上からおろされて大事な方位を備わることになります。  
 たとえば平生町大星山の頂上にあった神社などもおろされています。  
 俗に天孫降臨と言っているのがそれです。  
 そういう訳で、おろされたのは神代の昔のことです。  
 指月山の頂上には石垣遺跡が残っているようですが、それがその遺跡なのかもしれませんね。  




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