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万葉集 巻第二 186番歌 関連写真と説明


一日には 千度参りし 東の 大き御門を 入りかてぬかも

ひとひには ちたびまゐりし ひむがしの おほきみかどを いりかてぬかも  





 歌の意味は、「一日に何度も出入りした東の大きい御門を、今は入ることも叶わない」という意味です。

御門 (みかど) には様々な当てはめ方があるようです。この186番歌では大きな門を言っています。

 その門とは宮殿などへの門ではなく、舎人達(歌人達)の日常の生活の思い出の場所に入る門なのです。

 その思い出の門が戦乱の破壊によって見る影も無くなっている、と解釈したらいいでしょう。

 ただ、戦乱がこの場所であったのではなく、戦後の破壊工作によって再起不能にされたようです。

その東の大きい御門は何処にあるのかは、今まで見て来た23首から導き出せます。




石城山には2つの門跡があり、東門、北門、と呼ばれています。

 沓石(くついし)のある北門はよく整備されているんですが、東門の方は私有地などが絡んでいるため、

 ほとんど放置された状態で現在に至っています。少し前までは竹薮で薄暗く、草も生い茂って、入るのもためらわれるような所でした。

 今は雑木や竹が伐採されて全貌が分かりやすくなりました。 歌は「東の大きい御門」と言っていますから、東門になります。

 写真は東門跡の広場です。門礎石が南と北に二ヶ所残っています。2つの門礎石を結んだラインは南側から見て北10度です。






 黄色のラインが門跡土手の形状です。

 ただ、西側には田地利用としての石垣が築いてあったり、

南北礎石の延長ラインが土に埋まっていたりしますから、

現状での土手の形状が古来からの形状とは思えません。




礎石の大きさ


南側礎石



 地表面からの高さです。




スケールで計測しました。風化などによって欠けた部分が多く、正確な寸法ではありません。







 昔は田地として使われていたらしく、石の下部が水垢で変色しています。

 土中から新たに露出した石は焼けたように真っ黒くなっている部分があります。





 礎石間の距離は 12・5メートルです。

 北側礎石は南側と比較して約1メートル程度落ち込んでいます。



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こんどは北側礎石を見ます。

北側礎石




青色の数字は地表面からの高さです。

 町史によると、高さ 1・18mとありますから、土中にまだこの高さ分位埋まっているようです。










青矢印の割れ目の風化量と、石の角の風化量が異なる。

 そもそも、近年まで土中にあった物が風化するはずがないのです。

赤矢印の横シマ模様は石を切断した時の痕だと思われます。



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段違い礎石のナゾを解明する




 北側の礎石と南側の礎石の中間には約1メートルの段差(高低差)があり、北側が低くなっています。

 なぜ北側の礎石が1メートル程度も低くなっているのか推察してみますと、

 現在残っている礎石は基底部の礎石であり、その上にまだ石積みがあった可能性があります。

 ではなぜ上の石積みが無くなったかと言うと、石城山中に散在する石垣です。

いつの時代にか上の石を割って田畑の石垣を築くために利用したと考えられます。

 そして、土中にあって残された基底部の石が水流によって土砂が流され露出した、と見ます。

 なお、基底部の石と決めた理由は、この石の下は岩盤になっているそうです。







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開口部の広さ




 礎石間の12・5mは異様なほどの大きな規模を持っています。

 なぜこれほど大きな門にする必要があったのかと推測してみますと、

この門は、からと水道を航行する船から見ますと、肉眼でよく見えます。

 ということは、航行する船への威圧を兼ねて、大きく見せていたと考えられます。


 さらに、2つの礎石の軸線は北10度の方向になっています (下の写真)。





北 10度から開口方位を出しますと、東 100度方位になります。

 その方位には琴石山があります。初代伊勢の山です。(下の写真参照)

 ということは、この門は「太陽の門」だったと考えられるのです。








 門跡に立って中側方向を見たもの。


以上の事から、万葉歌の186番歌は、廃墟になった石城山の東門跡で詠まれたと結論付けるものです。





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