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波野行者山


この記事は私の日記で2009年3月に載せたものを再編集しました。

重複する記事が多くあると思いますが、ご容赦ください。



波野行者山を「からと水道跡」から仰ぎますと、動物が伏しているような形に見えます。

この山は古事記では「猪鹿」と記され、万葉集では「我が勢(わがせ)」という表現です。


また、遠くエジプトのピラミッドテキスト(壁画)には「うねる水の道の巨大なライオン」

というような表現で記されています。エジプトの古代人達がピラミッドや、コフィン(棺桶)に

呪文のように記してまで訪れることを夢見た聖地でもあるのです。


山跡の状況をお見せしようと、登ってみることにしました。

カメラの三脚が荷になるので手持ち撮影でブレまくっていますが、ご勘弁を。^^。




からと水道跡から木地(きぢ)への登り道です。






この登山道は、よほど知った人でないと迷いますから、登山されるかたは、この道ではなく、

新しい「あげ橋」の東側の道から登山してください。

東側から登っても参道遺跡は見れます。今回は全体のチェックを兼ねてこちら側から登ります。


上の画面、左側の土手の上が本来の木地の道の高さでした。

この新道を造るために、だいぶ掘り下げられています。

また、入山地点に「道祖神(賽の神)」が祀ってありました。

撮影者が立っている辺りです。それは別の所に移されています。

拝礼方向も逆向きに変わっており、本来は行者山の山頂方位です。





この道は両側が土手のようになっていて、本来の参道跡だと思います。













途中、平地になっている所がありまして、ここにかって仁王門(山門)が在ったはず、

と言っても、誰も信じてくれないとは思いますが・・・。いちおう書いておきます。





参道遺跡を横方向から撮影したものです。

右下から左上に傾斜していますが、ここに長大な石段があったはずです。

大昔に解体され、石段を取り払われて土手だけが残っています。

解体した石段の石材は、ある神社に再利用されています。





横方向から見た写真。石段跡の参道遺跡はしばらく上昇を続けます。

撮影者が立っている地点に現在の小道がありまして、参道遺跡と並行して進みます。





参道遺跡の真上に立って撮影してみました。

両側が急斜面になっており、石段を築くために土を盛って傾斜を合わせたことが推察されます。

ここに使った土石は、スフィンクスの鼻を形造る時に出た土石を使ったとしたなら、上から下ですから容易です。





画面右側の土手の上を参道遺跡が上昇しています。

今、撮影者が立っている所は現在の登山道です。





さらに登って行くと、道がスイッチバックのごとく右へ急転回している地点があります。

ここがスフィンクスの鼻(口)の付け根です。

スフィンクスの鼻先に行こうと思えば、ここを左方向へ進めば鼻先に出ます。

二十年ぐらい前に雑木を切って小道にしておいたんですが、また藪になったと思います。









この石段を登ったら、ようやく頂上です。

ふもとの賽の神の所から約30分位です。






頂上は地域の人々が毎年手入れしているので綺麗です。

お堂の右側にある小丘が頂上地点です。






この小丘の周りを歩いてみたところ、百数十歩でした。

ここは本来、古代の山頂古墳であり、最初の仁徳天皇陵墓と言っても信じてもらえないとは思います。

やがて仁徳天皇は東側ふもとの天王原古墳に下ろされます。その後に入ったのが通称の神武天皇です。


どちらかの時代に、南側ふもとの小山(万葉・香山)から女王がここに改葬されます(上げられます)。

その女王が俗に言う般若姫でもあります。ここには、かっての般若寺観音堂の前身が建っていました。

それは現在の般若寺観音堂へと受け継がれます。その証明として、今の般若寺の地形は、ここを縮小再現

してあることから証明されます。


古事記を見ますと、荻の命の時代にお堂の所に葬ってあった天皇(神武と思われる)を、

破壊したことが記載してあります。その時に掘り崩した痕跡が今のお堂の建っている所です。






昔は木造瓦葺の堂宇だったようです。今でも境内脇に昔の瓦が積んであります。






役の小角(えんのおづぬ)


私がこの像を修復した頃はお堂内部の石積みから外が見えるほど荒れたお堂でしたが、

今では内部をステンレス板で囲われまして、小角さまもさぞかしご満足なことでしよう。

この「役の小角」は万葉歌に詠まれていますから、万葉以前の実在人物であることがわかります。

別名を「神変大菩薩」とも申します。ちゃんと書いてあります。この像こそ神武天皇の姿です。


そして両脇に従える赤鬼青鬼は、日本書紀「雄略天皇・二年十月」の段に「身狭村主青(むさのすくりあお)」と、

「檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)」の二人を寵愛(ちょうあい)した、とあります。

つまり、青鬼が推古天皇、赤鬼が「博徳」であり聖徳太子を意味しています。


この二人は神武天皇からすれば敵方の子どもになります。なぜ敵方の子どもを自分で育てたかと

考えますと、占領地である初代ヤマトに身を置いている自分自身を守るための身の代なんです。


やがて二人が成長してオトナになった頃、「赤」は暗殺されます。そうした事は古事記の方に歌にして記してあります。

「青」が詠んだと思われる歌ですが、その歌の内容は「(暗殺を)知らないと思ったら大間違いだぞ」というような意味です。

やがて神武天皇は自分が育てた子ども「青」に夜床で暗殺されます。


その暗殺方法の公開については私自身随分悩みました。しかし、将来に歴史で誤解を招く恐れがあるため、

事実を正確に書いておきます。事実の進行過程は古事記の歌に記してあります。

そして、暗殺方法は「ヤマトタケル」の段に記してあります。女性と言えども勇敢なヤマトタケルなんです。

つまり、ヤマトタケルの段にありますように、夜床で相手の隙を見て尻から剣を突き刺します。

この方法ですと外傷が残りません。相手を殺して家屋に火を放ち、屍を焼いておけば

検視の時には事故による焼死で片付きます。今ですと解剖しますから即座にわかってしまいますが、

古代には解剖まではしなかったのでしょう。



暗殺が無事に済んだらすぐに火を放ちます。証拠を残さないためにです。

歌には「〜燃ゆる家群我が家の辺り」という一節があります。

暗殺が済んで火を放ったら、一目散に遠くへ逃げます。

関係者達も遠くから火の手が上がるのを見て、成功を知ったのだと思います。



その暗殺も憎い敵と言えども、育ての親を殺すわけです。

女性ゆえのためらいも相当あったようで、1度2度ではできなかったことが日本書紀には遠回りに記してあります。

しかし、そうまでして苦労した暗殺も薄々知られたようです。青も暗殺されたのだろうと私は見ています。

やがて初代ヤマトの地は今に至るまでも再起不能にまで落としめられます。


この山の小角は全身オトコですが、地域によって半男半女の姿をしています。

歴史的な意味があるのです。







そうすると神武天皇を祀ってある神社はどうなるのかという事については、海風想にも書きましたが、

祭神名が「神武天皇」になっているのは「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)からの

派生がほとんどのはずです。それは神代に名を換えていますから、正しくは「神武天皇」ではありません。

しかし、今さらそれを問題にする必要もありませんし、神武天皇のままでも構わないと思います。

敵方と言えど、一国を治めた主であり、天皇だったことに間違いはないのですから。




では、なぜ憎い敵方の神武天皇を仏像として祀ったのかは、敵といえども一国を治めた天皇だからです。

古事記で天皇と呼ばれた人の数を数えてみますと、三十三人います。

仏教に精通しておられる方なら「三十三」という数は特別なものがあると思います。

観音霊場は三十三ヶ所ですし、また、我々が観音経と一般的に呼んでいる

「普門品第二十五」には観世音菩薩が三十三回登場します。


そして極めつけが「三十三体観音」です。

「三十三体観音」とは、文字通り三十三体の観世音菩薩が集まっておられるわけですが、

教義では珍種の観音さまとしてあるため、ご覧になったことのある方は少ないかもしれません。

一般的な観音霊場に安置してある観音さまは七観音を中心としてあります。

そして、その七体の観音さまの散在する寺院(霊場)を集めたものが三十三ヶ所霊場です。

七観音を並べてみますと次のようになっています。

聖観世音菩薩 (しょう かんぜおんぼさつ)

千手観世音菩薩 (せんじゅ かんぜおんぼさつ)

馬頭観世音菩薩 (ばとう かんぜおんぼさつ)

十一面観世音菩薩 (じゅういちめん かんぜおんぼさつ)

准胝観世音菩薩 (じゅんてい かんぜおんぼさつ)

如意輪観世音菩薩 (にょいりん かんぜおんぼさつ)

不空羂索観世音菩薩 (ふくうけんじゃく かんぜおんぼさつ)



観世音菩薩の本来の姿は「聖(正とも)観世音菩薩」です。

時々によって自由自在に姿を変えることができます。そのため「観自在菩薩」とも言います。

姿を変えた観世音菩薩を「変化観音(へんげかんのん)」と言い、様々な変化観音があります。

七観音の七という数は七日周期を表し、今でも観音さまのご縁日として、七日周期の日あてがあります。

場合によっては六観音と言うこともあるようですが、六観音は天台宗を起源としており、

比較的新しい呼び方です。ちなみに六観音の場合は不空羂索観音を除いた六体になります。


今で言う一般的な三十三観音霊場とは、これらの七観音の

いずれかを安置する寺院を三十三ヶ所として集めたものです。


ですから、三十三体観音は七観音とはまた別物の変化観音です。

そして、それらの三十三体の観音さまを研究してみますと、どうも古事記から来ているらしい

という部分までわかってきました。もっとも、当初は逆ではないかと思いました。

変化観音を基にして、それらに三十三人の天皇を当てはめたのではないかと思っていました。

どうもそうではなく、天皇の人数に観音さまを当てはめた、つまり、

三十三体観音のそれぞれが、それぞれの天皇なんです。

では、本文の神武天皇は三十三体観音だと何観音になっておられるのかと見ますと、

どうも「多羅観音(たら かんのん)」ではないかという部分までわかってきました。



この辺で三十三体観音が見られる所は周防大島・旧・東和町の法心寺と心月庵にあります。

法心寺のは良く整理されていて、観音名も表示してあり、鑑賞するのも参拝するのも良いところです。

興味のある方は、ぜひお参りしてみてください。



さて、それなら七観音は何なのかと研究してみますと、

古事記に登場する「七乙女」であり、七人の女性達になってくるわけです。

ちなみに、「如意輪観音」を平仮名で書いてみますとよくわかります。「ごといわ」です。

ということは・・・観音経は日本で編まれたのではないか、と進行していきます 。^^。

侵略された時に略奪された可能性が多大です。つまり、経典は逆輸入なんです。


そうした訳で、敵と言えども国を治めた天皇であり、仏像にもなり得るわけです。



古事記の物語は先ず歌(伝承歌)がありまして、その歌を基にして物語に編んでいきます。

ですから、年代順に編まれてはいません。史実を克明に伝えているのは歌です。

歌の解読や分析、そして進行順に並べ替えなどをして、初めて史実が浮かび上がります。






波野スフィンクスの頭頂です。

比較的平坦な広場になっており、東側に約1メートル程度の段差がついて、

東側が低く西側が約1メートル程度高い2段構成になっています。

広場の外側は石垣状の遺跡がほぼ円周にグルリと取り巻いています。








広場の中心から約10メートル程度北側 (ほぼ中心地点) に、この石があります。

石の高さは丁度 1メートルです。 よく見ると、東を向いた人の頭です。

向いている方位 90〜100度方向。 柳井市新庄から水口茶臼山古墳へ向いています。


彫刻手法を見ると、目の部分を彫り下げて陰影を出し、顔の表情を浮き上がらせるやりかたです。

一見、自然石のように見えて、実は彫刻作品であるという点に於いては、石城山の夜泣石と同じ手法です。

ここから石城山までの距離は、現状では雑木に遮られて見えませんが、大声で叫んだら届きそうなほど近接した距離です。






上下の写真を比較してみてください。下の絵図はエジプトの記述です。

絵図には山頂に人の頭があります。上の写真と、まったく同じです。




グラハム・ハンコック ロバート・ボーバル 著 「 創世の守護神・上 」

194ページの絵図から引用しました。感謝します。



人頭石の状況。



東側から見たもの






北側から見たもの。 人の顔の裏側になります。






西側から見たもの

石の傾き角度 55度 倒れそうに見えますが倒れません。昔からこの角度です。

岩戸石もこの角度で傾いていますし、光市小周防の有飯八幡宮の御神体石も傾けてあります。


この方向から見ると、口を裂かれた人の顔になります。

口を裂かれた記述は古事記に記載してあります。


「〜「汝は天つ神の御子に仕へ奉らむや」と問ひし時に、諸々の魚皆「仕へ奉らむ」と申す中に、

海鼠(ナマコ)申さざりき。ここに天の宇受賣命、海鼠に云ひしく、「この口や答へぬ口」といひて、

紐刀もちてその口を裂きき。故、今に海鼠の口裂くるなり。」


この物語ではアメノウズメノミコトが登場していますが、そのアメノウズメノミコトはスサノオノミコトの

「天の石屋戸」で諸々の神々を楽しませ、やがてはアマテラスを石屋戸から出した愛嬌のある神です。

そもそもスサノオノミコトの章は子どもの頃の思い出を書いています。

身近な人物に物語を背負わせる書き方、と申しますか、ストレートに敵方の名で書くと

書いた者がやられてしまいますから、親しい身近な人物に背負わせて物語を編纂しています。

世相的な背景を考慮して読む必要があります。










行者堂から前面方向を見たもの。



行者堂・拝礼方位・5度

この方位は、石城山・高日ヶ峰の前方後円墳の跡と同じ方位です。ただし、位置が異なります。

方位を分析しますと、堂宇に向かって右手方向に柳井市の水口茶臼山古墳を指し示しています。

ここから改葬されていることの証明でもあります。





上の写真で「からと水道」は向こう側からこちらに向かって流れて来て、

蓮台寺山の所で画面左の方向へ直角にカーブしていました。


からと水道を敵方に堰で閉塞されてしまった後に、大畠瀬戸に再現しようとしたのでしょう。

また、大移住をして行った人々は播磨灘、紀伊水道に「からと水道」を再現しようとします。

逆に下関方面にもそうした痕跡が見られます。


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翔泳社発行・「創世の守護神」より引用します。

(エジプトのピラミッド壁画の絵文字を解読した記事です。)


うねる水の道」は洪水を起こし、ラーシュの原は水で溢れた。

私は船で天空の東側に運ばれた。その場所で、神々が流儀を授けた・・・・(オリオンの)妹はシリウス・・・・・

水路を通ってきた。それは大氾濫の洪水の河岸であり、安心立命の場だ・・・・・それは水平線にある・・・・・

どうか「うねる水の道」へ持ち上げ、昇らせてください。不滅の星たち、神々の間に置いてください・・・・・

『不動のまま、おお、オシリス王=オリオンよ、空の下側で美しい星=シリウスとともに

「うねる水の道」の曲がり角に、いてください・・・・・・・

「水の道」に行きなさい・・・・・オリオンがあるドゥアトへの階段が用意されますように・・・・・

おお王よ、あなたはこの偉大な星でオリオンの仲間、オリオンとともに天空を旅する。

オシリスとともにドゥアトの中を進む・・・・・

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以下、「創世の守護神」原文のまま引用させてもらいます。

『古代エジプト人は、オシリス、ホルスそれにラー(中略)の神々を、「祝福に満ちた「最初の時」の時代」が

最高の形で具現化したものだと考えていた。特にオシリスは、この聖なる王国で最初の王と考えられている。

妻イシスとともに王国を統治し、素晴らしき黄金時代を築いた(この期間に農業や家畜が人類に教えられ、

法と宗教的戒律が与えられた。)だがその繁栄は、暴力によって突如として踏みにじられた。(以下・略)


『では、「ソカルの地」とはどこにあるのか。どんな場所で、誰が所有していたのか?

(中略)一方、I・E・S・エドワーズは、「ソカルとは、メンフィスのネクロポリスの神」であり、

王朝時代前の死の神のことで、「ピラミッド時代には、オシリスとソカルが同一視されるようになった」と

述べている。(中略)どうやら、オシリス、ソカル、「ソカルの地」(中略)「ロスタウ」などには、ある連鎖

する概念があるようだ。「ロスタウ」はギザのピラミッド群の呼称で、第1部で取り上げたスフィンクスの

前脚の間にある花崗岩の石碑にも刻まれている。その石碑には、ギザが「最初の時の荘厳な場所」で、

スフィンクスは「ソカルの家」の脇にたたずんでいるともある。

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以上、引用させてもらった翔泳社様に感謝します。



さて、オリオンもオシリスもシリウスもイシスもわかります。

ただ一つ、「ソカル」がまだわからないと思います。「ソカル」とは日本語であり、「草刈」のことです。

満野長者旧記には、草刈山路の物語がありまして、その人物が般若姫と結婚します。

波野スフィンクスの前足の先端に相当する所に今もその家跡と思しき所が残っています。





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