目次に戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  からと水道について


 



   


一連の地図は山口県周防にある室津半島を示したものです。

 古代には、この半島は島として存在していました。

 上の地図はそれを再現したものです。

 半島の付け根の部分を、遠浅で運河状の水路が横断し、

潮の干満によって浮沈をくり返していました。

 その水路の名を「からと水道」と言います。





からと水道についての古記録は多く残っています。

天保年中(1830〜1844)編纂の防長風土注進案より水道の記述を引用してみます。


上田布施村

田布施(たぶせ)波野(はの)の内海にて寺家田と申す所大潮満干ありし、

この所を唐戸の迫門(せと・せまと)と申し候由。然れども全てにおいて

浅海にして干潟の地多く、依りて天正十三年御當職佐世長門守様御見分

の上、御開作被り仰せつく(以下略)。



波野村

波野といへる村名、そのむかし東は大嶋鳴門より南は麻里布の沖へ

潮行き通ひ候時、波の打ち寄せる野といふ心より波野と呼び習はせしと

閭里(りょり・村里の意味)に申し伝へ候。







大波野村

波野は往古この辺りまでも海水満ち来りしより波野といへるよしは波野村の

部に譲り候。当村を大波野とはもと奥の文字なりしをいつしかに大の字に

改め来りしと村中の申し伝へに候。







平生村

平生は往古この辺り田名、別府の沖より立ヶ濱、波野、與田、柳井、大嶋、

鳴門へ潮往回りて、則萬葉集に出たる麻里布の内海なりしか、天地老いて

山河形をあらたむるならひ、いつとなく干潟となりとて二三里が間ついに

田園市井と変じ候。中にもこの平生は麻里布四十嶋の内、野嶋、玖珂嶋

両山の土石をもって毛利就ョ公御開作御築立、(以下略)





からと水道跡の別名を「柳井水道跡」とも言いますが、それは現在の呼び名です。

 古来よりの呼び名は古事記の歌にも記載があり、「加良怒」とあります。

 「からと」という名は古事記・仁徳天皇の段に「枯野」という船の名として出てきます。

 「○○河の西に一つの高樹あり、その樹の影、朝日にあたれば淡道島におよび、夕日にあたれば

高安山を越えた。故、その樹を切って船を作りしに、いと速く行く船なりき。時にその船を名付けて

枯野と謂ひき。故、その船をもちて朝夕淡道島の寒泉(清水)を酌みて、大御水たてまつりき。」



 物語では枯野(かれの・からの)になっていますが、歌には加良怒の文字で記してあります。解読してみます。

加良怒袁志本爾夜岐斯賀阿麻理許登爾都久理加岐比久夜由良能斗能斗那加能伊久理爾布禮多都那豆能紀能佐夜佐夜

からとを(史本にヤシ字が余り)琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中のいくりに触れ立つ 菜漬の木のさやさや



歌と物語とで「からと」の文字が異なる背景には、歌から物語を導き出したと考えられ、

先ず歌を記した木簡のような物があって、その歌を基にして物語が編纂されたのでしょう。

歌の成立年代と、物語の編纂年代には、相当な開きがあるのかもしれません。


「からと」という名は、今までは「から」が付いているから「唐国」に関係していると思われて来ました。

それもあるかもしれませんが、主に塩田から来ており、大昔のからと水道は塩田で栄えました。

塩辛いの「からぁー」であり、「辛ぁ門」と書けば本来の意味になりましょう。


歌中、「史本にヤシ字が余り」とはどういうことかと申しますと、

からと水道の名をつけた船「加良怒」は埋納されており、埋納地点もわかっています(別ページ解説)。

そうすると、従来の解読ですと「塩に焼き 木が余り」となるのですが、塩に焼いてはいないことになります。

塩焼き以外の解読をしてみますと、冗舌な面もありますが「史本にヤシ字が余り」となります。

盗掘されないように歌をカモフラージュさせたのでしょう。「ヤシ」とはこの地方の方言になりまして、

「インチキ」という意味を持っています。要するに歌中の「ここのインチキ文字は省きなさい」という意味です。

そうしてインチキ文字の部分を省きますと、以下のようになり、大畠瀬戸が浮かび上がります。


からとを 琴に造り 描き引くや 油良の門の 門中のいぃクリに触れ建つ 菜漬の記のさやさや
からとを ことにつくり かきひくや ゆらのとの となかのいぃくりにふれたつ なづのきのさやさや
(解読・イワノトミノカズマロ)


「琴」とは、柳井市大畠にある琴石山を意味しています。つまり、からと水道が閉塞した後のこと、琴石山の

ふもとにある大畠瀬戸にからと水道を再現したという意味です。だから「琴に造り」となっています。 


「描き引くや」とは、方位線のこと。琴石山のふもとにある前方後円墳(全長・90m)の水口茶臼山古墳から

出土した銅鏡には、単頭双胴怪獣鏡(直径・44.8p)で定規をくわえた小竜のレリーフがあります。


「油良の門」とは、周防大島町油良の油良湾のことです。 「門中のいぃクリに触れ建つ」とは、油良八幡宮を意味しています。


「菜漬(なづ)」とは、賽の河原の賽を訴えており、賽の河原は別名を三途の河原(さんずのかわら)とも申しまして、人が死んで

渡るあの世の川のこと。その河原で供養のための河原石を積み上げると、完成間近になって鬼が出て来ては崩すという地獄です。

それを救うのが地蔵菩薩であり、地蔵菩薩は閻魔大王の化身でもあります。そうした信仰上の話が転じて「賽の河原」とは

地獄のサマを表わします。歌では菜漬としています。意味としては「賽の河原漬け」となり、戦乱の地獄のサマを表現しています。

歌ではさらに「菜漬の記」ですから、戦乱の記録という意味になります。戦乱の記録を「さやさや書く(線を引く)」という内容です。




 次に、日本書紀での加良怒はどう記載してあるか見ますと、応神天皇五年冬十月に登場します。

 枯野という不可解な呼び方について問題点が指摘してあります。

 「冬十月、伊豆国に科せて船を造らしむ。長さ十丈。船やがて成り、試に海に浮かべる。

 すなわち軽く浮きて、速く行くこと馳(は)するがごとし。故、その船を名付けて枯野と曰ふ。

(船軽く速きによりて枯野と名付く、是の義違へり。若し軽野(かるの)と謂ひ、後人訛れるか。)



「かるの」という問題点の記述は小さい文字で書いてあり、後で付記されたものだと思いますが、

歌では訶羅怒烏之褒珥椰枳之餓阿摩離(以下略)とあり、日本書紀でも「からと」と読めます。





 さて、室津半島をよく見ますと、巨大な前方後円墳の形が浮かび上がります。

 前方後円墳はこの半島をモデルにして造られた、と仮定したらどうでしょう。

 どうしてこの半島がモデルなのかということは、人々が移住して行く前の古代の都

「夜麻登」であり、つまり、前方後円墳は室津半島の形をモデルにしています。

 前方後円墳に眠る人々は初代ヤマトからの移住者か、又は関係者であるという象徴なのです。

 どうして移住して行く必要があったのかは、大陸方面からの侵略が頻繁に起こるようになったため、

 安住の地を求めて日本各地に分散して行ったようです。そうした事は本文で研究していきましょう。



 からと水道を研究していくと次々と発見が出てきます。発見は、やがて世界へと跳躍し、

 エジプト王墓の絵文字に記載されている「ホルアクティ」へと通じていきます。

 王墓の壁画文章にある「うねる水の道」とは、「からと水道」のことなのです。






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目次に戻る       次のページに進む
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・