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森 法心寺
写真・すべて2013年10月から11月にかけて撮影。 Camera G1X
享保年中(1716〜1736)編纂の防長寺社由来より。
大島郡森村 禅宗法明庵由緒書
当寺の儀、往古は当所(森村)宝王大明神(神山神社)の社僧寺にて、
末寺等も数多ありし大寺にて御座候由申し伝え候。然る所にいずれの
頃よりかほとんど大破に及び、住職の僧も無きし。末寺等残らず滅亡
し候故、旧記や什宝(じゅうほう・宝物のこと)等悉く紛失致しにつき、
往古の開基や代々住職の僧世牌(位牌・過去帳と同じ)、国主の時代や
年数かたがた相知れ申さず候。 (以下中世の由緒書につき略す)
上の1枚は画像を一部加工しています。(供え物の部分)
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天保年中(1830〜1844)編纂の防長風土注進案より
曹洞宗安養山法明庵 板壁村に在り
「同郡和佐村心月庵へ合併本地へ住改号法心寺」(朱、後筆)
當村に往古法壽寺法明庵と禅宗二ヶ寺御座候ところ、法壽寺ついに断絶に及ぶ。
彼の寺の本尊阿弥陀如来の像をも法明庵に引き移し、尤世牌なども不分明につき、
(以下中世の記録につき略す)
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防長寺社由来と、防長風土注進案には約百年の隔たりがあります。
防長風土注進案の書く 「和佐村心月庵へ合併」 とあるのが不可解です。
それを真に受けると、一旦は心月庵へ行っていることになるわけです。
そして、やがて森に帰って心月庵が法心寺になった、とも受け取れてきます。
朱の後筆ですからいつ入記されたのかもわからない。
こうした朱の後筆は、他の諸記録などを見ても
重要な事が多いですから無視できません。
法心寺には国宝に指定されてもいいような美術品がたくさんありまして、
それらを見せてもらった時に、心月庵から持って来た宝物かもしれないと
住職さんもおっしゃっていました。
多くの芸術品宝物のなかから特別な1枚の写真を貰いました。
それが下の写真です。
写真
50センチくらいの高さのお堂に入れてありまして、
私は観た瞬間、これは仁徳天皇と聖徳太子ではないか、
そういう印象が強かったです。
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三十三体観音
法心寺の本堂横に大師堂があり、その境内に石彫三十三体観音が安置してあります。
一般的な観音仏とは趣が異なり、実際に三十三体観音を見たことのある人は少ないかもしれません。
三十三体観音は神山(こうのやま)や五角池を見おろせる丘の上に安置してあります。
本来は画面右手の丘の上にあったのをここに安置したそうです。
住職も言っておられたのですが、その丘は前方後円墳の形をしているとのこと。
その後の私の研究を申しますと、丘を鳥の頭に形作ってあり、その鳥は神山を見ています。
その鳥の頭上に三十三体観音が並べてあった、ということになります。
三十三体観音のそれぞれの名称は石板に名が彫ってあったそうです。
上の画像、黄色いガードレールの向こうに少し見えている池が五角池です。
画像真ん中の建物は周防大島八十八ヶ所の番外寺になっている法心寺大師堂です。
以下、解説は国書刊行会発行の書籍を参考にしました。
写真撮影・2013年11月12日 Camera G1X
楊柳観音 楊柳をもって三味耶形(さんまやぎょう)とするがゆえに名づく。
右手に柳枝を持ち、左手は掌を開き胸にあて、宝珠をささえるかたちをする。
また、薬王観音ともいう。千光眼観自在菩薩秘密法経に「もし身の上の衆病を
消除せんと欲するものは当に楊柳枝薬法を修すべし。」と説く。
龍頭観音 天龍夜叉の身を現わし、雲中龍の背に坐す。
持経観音 声聞身(しょうもんしん)の身を現わし、右手に経を持ち、岩上に坐す。
円光観音 光中に色身を現わし、合掌して岩上に坐す。
遊戯観音 堕落を金剛山に色身を現わし、雲上に右膝をたて、左の手を雲につく。
白衣観音 比丘比丘身(びくしん)を現わし、白衣をつけ、岩上に坐す。
蓮臥観音 正応身を現わし、池中蓮華の上に坐し、合掌する。
滝見観音 火坑変成池(かこうへんじょうち)の身を現わし、断崖に坐し、滝を見る。
施楽観音 如日虚空住(にょにちこくうじゅう)の身を現わし、左手を膝に置き、右手を頬にあて、蓮花を見る。
魚籃観音 惑遇悪羅刹(わくぐうあくらせつ)の身を現わし、水上大魚に乗る。
徳王観音 梵王身(ぼんおうしん)の身を現わし、岩上に趺坐(ふざ)して、右手に緑葉枝を持ち、左手は膝に安ず。
水月観音 辟支仏身を現わし、水上蓮葉の上に立ち月を見る。
以下、解説は次の機会にします。
三十三体観音がどう違うかと申しますと、我々が言う三十三観音は、三十三ヶ所観音霊場とも言いまして、
観音さまにご縁のある寺院を三十三ヶ所巡拝して歩く、言わば場所としての修行コースの
三十三ヶ所を言います。場所の三十三ですから、たとえば、十番目と二十番目は同じ観音さま
ということもあり得ます。それらの観音仏は、七観音仏からの変化(へんげ)観音が主流です。
七観音をあげてみますと次のような構成です。
聖観世音菩薩 (しょうかんぜおんぼさつ)
千手観世音菩薩 (せんじゅかんぜおんぼさつ)
馬頭観世音菩薩 (ばとうかんぜおんぼさつ)
十一面観世音菩薩 (じゅういちめんかんぜおんぼさつ)
準胝観世音菩薩 (じゅんていかんぜおんぼさつ)
如意輪観世音菩薩 (にょいりんかんぜおんぼさつ)
不空羂索観世音菩薩 (ふくうけんさくかんぜおんぼさつ)
七観音の七という数は七日周期を表しており、その名残りとして今でも観音さまの縁日として
七日周期の日あてがあります。また、天台宗の場合は六観音になることもあります。
六観音は天台宗が起源であり、比較的新しい呼び方です。
ちなみに六観音の場合は不空羂索観世音菩薩を除いた六体になります。
現在言う一般的な三十三観音霊場巡拝とは、これらの七観音を中心として、
その七観音の散在する観音霊場を三十三ヶ所巡拝する、ということを言います。
では、なぜ三十三という数なのでしょうか?
三十三という数を経典から見て考えてみますと、その数は観音経にあります。
まず観音経から説明します。我々が一般的に言う観音経とは、正式な経典名を
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつ
ふもんぼんだいにじゅうご)と言います。この長い名を省略して、観音経とか普門品というふうに
呼んでいます。その観音経を開いてみますと、観世音菩薩の名がたくさん登場します。
観世音菩薩の五文字全部がそろっている正式名称が何回登場しているか、その数を
数えてみますと、三十三回登場しています。つまり、三十三という数は経典も意識しています。
ではなぜ観音経に観世音菩薩が三十三回登場するのでしょうか?
そのナゾを解く典拠は古事記にありまして、古事記に記録してある天皇の人数は、
神武天皇に始まって推古天皇で完結するまで三十三人記載してあります。
観音経が成立したのは紀元前後頃だろうと言われています。
ここで三十三体観音仏がどういうものか調べてみることにしましょう。
三十三体観音については詳細な資料が少ないので苦労するのですが、
「国訳秘密儀軌編纂局」という物々しい編集で、国書刊行会発行の
資料から一部分引用してみます。(部分的にわかり易く変えました)
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三十三体観音
三十三体観音は、法華経普門品に説く三十三身すなわち観音の普現色身三昧より
示現する三十三種の変化身を根拠として後人の作れるもの、三十三体観音としての
典拠は不明なり。すなわち、三十三身を三十三種に図画して三十三体とせるもの。
勿論これ好事家の作れるものにして、経軌の説にあらざるはいうまでもなし。
(以下別項より)
三十三体観音の中で楊柳観音(ようりゅう)は千光眼経にあり、
持蓮観音(じれん)も、同経の白蓮観音や紫蓮観音のような
類似した名を見い出しうる。延名観音は摂無礙経にあり、
白衣(びゃくえ)、青頸(しょうきょう)、阿摩提(あまだい)、葉衣(ようえ)、多羅(たら)
などは経軌の説明ができる。但し、三十三体観音中のものは
その形像、本誓などが経軌の説と異なる。
また魚籃(ぎょらん)、馬郎婦(ばろうふ)観音は中国の典籍に所蔵される。
滝見、岩戸観音はその名から考えて日本で考案されたものであろうか。
その他はその由来が不明なり。
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法心寺の位置
参道入り口にて計測
N 33度54分45.4秒
E 132度21分38.3秒
位置精度 +− 3m
拝礼方位 40度
法心寺の拝礼方位線です。
心月院の方位分析と合わせてご覧ください。
拡大してみますと下図のようになっています。
追加・補足の予定
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