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 侵攻の記録          

 五社分析結果。        

 萩市の中洲を取り囲む五社を分析しますと、神武東征(遠征)のルートと侵攻拠点が浮かび上がりました。
 現状ではまだ社寺の分析はこれがすべてではなく、残っていますが、一応、中洲を取り囲む五社ということで結果を出してみました。

 下の写真ABは鶴江神明宮の前面方位線です。これは東征物語の「豊国の宇沙」を意味しています。
 方位線は見事に山国川の中州を指しており、そこを侵攻拠点にしたと推察できます。
 物語ではウサツヒコとウサツヒメが迎えたことになっていますが、実情は侵略だったのでしょう。
 北九州の日本海側は侵攻に対して固めてありますが、瀬戸内側はほとんど無防備に近い状態だったのではないかと推測します。  





 豊国の宇沙の場面を今までは歴史のうえで宇佐神宮として考えられてきました。
 上の方位線Bを見ても八幡古表神社が重要な意味を持っていることがうかがえます。
 それなら今まで考えられて来た宇佐神宮は何なのかと見ますと、志都岐山神社の方位線に記してありました。
 下の写真Cがそれですが、宇佐神宮を通過した方位線は西都原古墳群を指し示しています。
 やがては宮崎から日南に至ります。これはどう解釈したらいいのかと随分考えました。
 現状で明確であることとして、この方位線は古墳群が重要な意味を持っていることです。
 古墳群の意味するところは戦乱後であり、侵攻から時を経ていることです。

       


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 続いて次の五枚は連続性があり、侵攻経路を表わしています。
 吉備の高島の宮からどう進んだか、です。



 赤丸Aの所に笠岡市・高島があります。そこから島伝いに渡って行きますと香川県丸亀市があり、
 物語の青雲の白肩津は今も白方という地名で残っています。楯津は今の多度津町です。
 また別に、緑丸Bの所には香川県・大島があり、緑丸Cの所にも香川県・高島があります。
 さらに岡山市・児島湾にも高島があります。
 それらの同一島名の高島を思う時、侵攻は高島を拠点にして何度も複数回行なわれたと解釈できます。
 したがってどの高島も皆、関連性がありそうです。  




 物語では楯津からの進行経路があいまいで誤解を招きやすいのですが、
 楯津(多度津)からは四国沿岸を西へ辿りながら復路につきます。
 緑丸Aの所に愛媛県・大島があります。








 愛媛県松山市や伊予市の辺りから伊予灘を渡って行きますと、柳井市平郡島です。  
 これらを見ましても萩市の五社は神武東征物語の進行経路を指し示していると言えましょう。  



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