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 万葉歌と共に       

 万葉・磐国山  愛車と越える欽明路峠       







 欽明路峠は私が万葉集の勉強を始めた頃、何度か通った事のある峠です。その頃は歌のナゾ解きに夢中になって、写真は後回しでした。このホームページ五月号で掲載したのをきっかけに、撮影方々、もう一度車で通ってみることにしました。山歩きの好きな方には、車で越えるなどもってのほかと、お叱りを受けそうです。しかし、調べてみますと、昔と言えども馬や牛に乗って越えています。それをよく表わしているのが「難所」です。実際に欽明路峠を徒歩で越えてみますと、私が若いせいもあるかもしれませんが(^S^)、それほどでもないんですね。では、なぜ難所なのかと考えますと、馬車や牛車が見えてきます。馬や牛に重い荷物を背負わせたり、荷車を引かせたりして峠を行きますと、馬や牛は苦しさにあえいで進まなくなります。それをなんとかして進ませる苦労は大変なものだったことでしょう。だからこそ難所なんです。用明天皇は牛使いの達人だったと般若姫物語にも記してあります。私も達人にあやかるべく、現代の車で越えてみることにしました。



 玖珂側から旧欽明路峠へ入る。岩徳線(左側の土手)と平行して東進して行きます。
 向こうに見える山が欽明路峠です。
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 岩徳線踏み切り。
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 右手方向に欽明路駅。
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 左側に欽明寺があります。いよいよ峠道。

  宝光山欽明寺 (内部リンク・予定)     
 昔、欽明天皇ここに御輿を立てたまふ故、欽明寺と云。

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 山陽自動車道の上を横断。下の写真も同じ所。



 山陽自動車道、この少し先に玖珂インターがあります。
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 いよいよ本格的な峠道です。
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 登って行って驚きました。昔の道は何処にいったか?まるで別世界じゃありませんか。
 道を間違えたかと考え込みました。
 右へ行くと祖生(そお)方面。 欽明路峠へは左です。
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 センターライン付きの道を進んで行くと、やがて単線になりました。
 この歌は、由宇の銭壷山で詠まれた歌だと思います。
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 なんとなく左手に引かれたのは私だけでしょうか。^★^。・・・お地蔵さまに引かれたみたいです。
 左に少し下った所の山の中腹に隠れ神社があります。さらに進むと甘木地区に出て旧国道2号線です。
 欽明路峠(中峠)へは右が正解。



 ここら辺の下には欽明路隧道が通っています。この辺りの地下はトンネルだらけです。
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 三蔵山の中腹より遠望する。
 青矢印は小行司行者山。赤矢印は大波野多賀神社の山。
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 このくらいの広さの道ならまだ♪♪気分です・・・。
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 この写真は福岡県の雷山です。歌中の「風」から雷山であることがわかります(内部リンク)
 磐国山は複数ある、という事の証明です。
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 欽明路峠(中峠)頂上直下。 バイブレーターのごとき急降坂を下ってきたところです。
 腰痛が治りました。
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 右の道路は国道2号線欽明路バイパスです。
 バイパスを向こう側の岩国方面から来ますと、欽明路隧道(トンネル)入り口の右上に見える道がこの道です。
 ここはバイパス側も下りになっているんですが、中峠の道はさらに急降下しています。車を駐車するのにズリ落ち防止の歯止めをかけています。
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 (下の写真)同じ場所の左側には沢が流れています。



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 中峠の道は沢伝いにのびています。
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 道沿いの田園風景です。
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 左上の標識は欽明路バイパス。
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 右側は欽明路バイパス。
 通行量はひっきりなしです。車の切れ目に撮影するのは大変でした(笑)。
 この歌、由宇の銭壷山(古称・目舞ヶ岡)の歌ではないかと思います。
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 昔は清流を渡るのも大変だったことでしょう。 きれいな清流です。
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 対向車と出会ったらこれはもう、ジャンケンしかないでしょう(笑)。 (見通しが効くので大丈夫です)
 上の歌は注釈文から推察して、現、岩国山の歌ではないかと思います。
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 岩徳線の下をくぐります。
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 向こうの黄色いガードレールは国道2号線です。ようやく広い道になってホッとしているところ。
 あれっ?玄仍(げんじょう)さん、みつけた。 インドじゃなかったんですかぁ?(爆)。
 吉川のお殿様も秘書にしちゃったりして、冗談が過ぎます(爆)。
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 玄奘は有名な三蔵法師でもあります。欽明路峠でいちばん高い山を三蔵山と申します。
 玄奘(げんじょう)の年代や年数の特徴を導き出して逆算していきますと、玄奘は推古天皇が亡くなった年に修行旅に出発しています。玄奘の旅の様子を知るには、「大唐西域記」という記録があります。大唐西域記を書かなければならなかった背景には、玄奘が時の朝廷に西域事情をくわしく報告しなかったからでもあります。朝廷としては、西域にくわしい玄奘を側近に置き、西域の事情をいつでも聞けるようにしておきたかったようです。ところが、玄奘はそれに応じませんでした。「大唐西域記」にはそうした事情があります。現存している記録が玄奘の書になるものかと言うと、どうもそうではないらしく、宋代以後の版本という事です。それを読んで不思議に思うのは、あれほどの経典を持ち帰りながら、経典のことについては、まったく触れていないことです。いくら朝廷に差し出す本と言えども、経典入手にまつわる苦労話しなど一つや二つは有ってもいいはずです。ところが、意に反して経典の話しは、まったく有りません。「大唐西域記」を読んで個人的に感じたことは、あの有名な隋書の文体とそっくりであるということ。漢文の記録というものは、ああいう体になるのかもしれませんが、実によく似ています。私が読んだ本が翻訳本だったからそう思ったのかもしれませんが・・・。その隋書にも「大隋翻経婆羅門法師外国伝」というのがあったようですが、有るや無きや、私はまだ見ていません。経典について特徴的な年代をわかりやすいように西暦であらわしてみますと、611〜615年の間に聖徳太子が経典の義疏を完成させています。玄奘が旅から帰国して経典の翻訳を始めたのが644年からです。という事は、仏教は日本の方が先行しています。そもそも天竺毘首羯磨(ミケヌノミコト)をはじめとするインド人達との交流は仏教の先進国であることの証しでもあります。
 中国の仏教伝記にこんな書物があります。「唐大和上東征伝」この題名の読み方は「だいわじょう」ですか?その本に登場する地名に「阿児奈波」という所があります。阿児山のふもとの難波ではないですか?そこには四天王寺の前身がありました。八幡の涅槃像の上です。

 聖徳太子が煬帝に送った手紙のナゾ。今まで様々な推測が飛び交った文書の一節のナゾが解けてくるようです。
 「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」
 ひいずるところのてんし、しょをひぼつするところのてんしにいたす、つつがなきや

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 柱野(はしらの)にて。 
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 同じく柱野にて。御庄川沿いに進んでいます。
 撮影したのが五月初旬だったので、コイノボリが泳いでいます。
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 瀬戸内を航行して来て、今津川から錦川に入り、今の錦帯橋の辺りで舟を降りたとします。
 そこから、この川沿いの道を進んだとして、欽明路峠まで、この間の距離がだいぶあります。
 岩国市を朝一番に出発しても、欽明路峠を越えて向こうの玖珂に出る頃には夕方近くになったことでしょう。



 錦川鉄道清流線と思案橋。 錦帯橋方面へは右折して思案橋を渡ります。
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 左の建物は山陽新幹線新岩国駅。ここは駅の裏手になります。
 村重酒造の前で今回の万葉歌の旅は終了にしました。
 この後、ふたたび中峠を通り、祖生に出てみました。
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 帰路に通った道です。欽明路峠から祖生(そお)に通じている新道路。
 画面中央の山は高照寺山。その右側は銭壷山。


 以上の参考文献「玖珂郡志」に拠る。



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