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イザナギイザナミ・第1部
香山
イザナギイザナミ神話を読みますと、古事記と万葉歌との一致があります。
先ず、その一致している部分から見ていくことにしましょう。
古事記の記述
・・・・・「香山の畝尾の木のもとに坐し、泣澤女神(なきさわめのかみ)と名づく。
故、その神去りしところのイザナミの神は、出雲国と伯伎国の堺、比婆の山に葬るなり。」
万葉集の歌
巻第2 202番歌
哭澤の 神社に三輪すえ 祈れども 我が王君は 高日知らしぬ
なきさわの かみにみわすえ いのれども わがおおきみは たかひしらしぬ
上記の古事記を見ますと、泣澤女神は香山にいたようです。
香山の字は原典通りです。その読み方を今は香具山と一緒にしてあります。
しかし、香山の字は万葉集にもありまして、特筆できるのは巻第三の259と260番歌です。
その歌には香山(こうやま)と記してあります。
つまり、香山とは今の香具山の前身であり、香具山とは別の山です。
その香山を特定するために香山のある万葉歌を載せてみます。
万葉集 巻第三 257 258 259 260番歌
257 あもりつく 雨の良き山 霞たつ 春に至れば 松風に 池浪たちて 桜花 来んの遅しに 奥辺は 賀茂妻呼びし
邊つ方に 箕の村騒ぎ 百磯城の 大宮人の まかり出て 遊ぶ船には 梶棹も無くて辛くも 漕ぐ人無しに
258 人漕がず 荒くも知りし 潜きなす 押機と高部と 船の上に住む
259 梶竿も 神さびけるか 香山の 鉾杉が下に 芹生すまでに
260 天降りつく 神の香山 打ちなびく 春去り来れば 桜花 城の暗茂へ 松風に 池浪乱れ 邊津辺は 青村とよみ 沖辺は
賀茂妻呼びし 百磯城の 大宮人の 去り出でへ 漕ぎける船は 竿梶も 無くて寂しも 漕がむと思へど
上記四首ともに私の解読です。原文の本と照らし合わせてみてください。こうなります。
細かい説明は万葉歌のページに載せるつもりです。ここでは香山を導き出す趣旨で話を進めていきます。
歌の全域に於いて船が根本にあります。その船は記紀に記してある仁徳天皇の船を語っています。
その船は地下深くに埋納してあります。井戸ボーリングで約 20メートル付近で大量の船木が上がりました。
その地点は波野スフィンクスの前面になります。さらに香山は波野スフィンクスの前脚を形成している山です。
今の地籍名は小山と書いています。「こやま」は「こうやま」です。すなわち、上記の万葉歌と一致しています。
古事記の記述 「香山の畝尾の木のもと」 の「木」とは墓標のことだろうと思います。
墓標に関して般若姫物語にこんな記述があります。聖徳太子が参詣した時の物語です。
「途中より・・・万里の虚空に飛び上がらんとし給いしが、谷間を見給えば多くの墳墓あり。立ち寄り御覧あれば、大なる墓の後に高らかに印札を立て、
表に般若皇大后宮十九才にして丁亥四月十三日薨去す、裏に豊後国満野長者一女と書き記したり。・・・以下略」。
(平生町教育委員会発行 「般若姫物語」より引用 / 引用許諾取得済み)
「高らかに印札を立て」とある一節を見ても、古事記の「木」とはその印札を意味している可能性が高くなります。
この語り文を書いた時には、すでに二つの物語(親子)が混在して、混ぜこじゃになっていたようです。
それがわかることとして、古事記にこんな歌があります。
古事記 雄略天皇 葛城山の段。
「やすみしし 我が王君の 遊ばしし 敷の病み猪の 歌き(ウタキ)かしこみ 我が逃げ登りし 在り尾の榛の 木の枝」 (解読・著者)
意味は、永眠していた人物(佐久夜姫)が聖徳太子のあげるお経を聴いて恐れて木の枝に逃げ登った、という意味です。
歌の作者が、永眠している人物になり代わって、ユーモアたっぷりに詠んでいます。
では、この歌は誰が詠んだんだろう、ということになります。それは別の歌にヒントが入れてあります。
古事記 雄略天皇 赤猪子の段。
「日栄えの 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなはちす) 美の盛り人 羨しきろかも」 (解読・著者)
若くて美しいうちに仏になったお母さんは羨ましい、といった慰めを込めた歌です。
日栄えの入り江に香山があります。今は陸地になっていますが、今でも地形から入り江だったことがわかります。
入り江の蓮とあることを見ても、当時すでに海は遠ざかり、池に等しい入り江になっていたことがわかります。
花蓮とは、この歌を詠んだ人物の親であり、木花の佐久夜姫です。歌を詠んだのは若い頃の推古天皇です。
日栄えは用明天皇(林松坊)を意味しています。小山(香山)や林松坊のある所は「上ゲ(あげ)」という地区ですが、
古事記、用明天皇の場合を解読しますと、「御陵は石城の脇の上ゲに在りしを、後に科長の中の陵に移すなり。」 と、なります。
科長という地名は推古天皇と同じ所です。推古天皇の最初の陵墓は阿多田古墳ですから、阿多田半島の中間辺りに葬られています。
阿多田半島には小さい古墳が多くあり、また古墳と思しき小丘もあります。戦時中の防空壕築造によってだいぶ破壊されています。
また、科長を花鳥と受け取るなら、現在の般若寺にある用明天皇陵になります。当時の仏教の隆盛を思うと、分骨葬です。
やがて日本書紀によると、最終的に「河内磯長陵(大阪府南河内郡太子町)」に改葬されています。
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南側から見た香山の現状
ABC・西側から東側へと連続撮影しています。
香山と林松坊は波野スフィンクスの前足に相当します。
古記録には「林正坊」と書いてあるものもありますが、
私が聞いた限り「林松坊」と書き、松の字をあてるのが本来の字です。
たぶん後世に「正信偈」の「正」の字をあてたのでしょう。
「入り江の蓮」と歌われた入り江の跡も今ではあちこち埋め立てられています。
入り江跡を偲ぶには、昔からある道だけが入り江の形状をトレースしています。
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香山の頂上
小山(香山)頂上にて。平成九年(1997)撮影。今も変化はありません。
香山の頂上に在る徳吉稲荷社のご神体、稲荷主祭神ウカノミタマです。れっきとした女神です。
ウカノミタマは正体がわからなかったため、様々な憶測が飛び交ってきました。髪型など琉球調。
小山(香山)の頂上(参道脇)に半ば露出した状態で残っている築石。
稲荷社はこの築石へ向いています。
歌などを分析すると、陵墓はここから波野スフィンクス頂上へと改葬されます。
まだ未調査の遺跡であり、諸々の資料には記載されていません。
以下、露出部分を計測。
石の長さ 約 2メートル。
厚さ 約 70センチ。
石の高さ 土中のため不明。
昭和初期に掘った人の話によると、1メートル少々くらいの高さと聞きます。
推察してみますと、箕山などと同じで、殯をした跡だろうと思います。
この場所で殯を何年かした後に北側の波野行者山に上げたのでしょう。
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余談
こうした古い陵墓で、よく話題になることとして、殉葬が行なわれたか?・・・というとんでもない話しがあります。
その殉葬とは、王が亡くなると側近や従者達を王の墓の回りに生き埋めにして、黄泉の国へのお供をさせた、というものです。
そして、あまりにも昼夜泣き叫んで可哀そうだからある時期にやめさせた、というものです(日本書紀)。
日本書紀よりも古事記、崇神天皇の「后妃と皇子女」の終末部にある記述のほうが参考になります。
まずその文を挙げてみます。古事記の記載はこれだけです。
此王之時始而於陵立人垣
ホームページビルダーの関係で返り点を省いています、諸本を参照してください。
この記述、於の文字の前に止の文字があって「止於」としてある古典もあるそうです。
そのことについて、後に書かれた記傳という解読書には、次のようにあります。
『なまざかしらに加へたる物にして中々にいみじきひがことなり(其由は次に委曲にわきまふ)諸本共に此字あることなし』
また、人の字の左脇に註釈文の記載があり 『御本无人字』 と記してあり、つまり、底本に人の字は無い、と言っています。
こうした内容は現代の活字本では省略してあるので、原典を見て初めてわかるものです。
筆跡や墨の色を見ればわかるのですが、注釈文が本当のことを書いているのでしょう。
すなわち、人垣などは無いということです。
古墳の発掘調査の際にも話題になるらしく、埴輪が出てきたら大丈夫だ、とか、
埴輪が出なかったら気をつけないと殉葬されているかもしれない、という話しも聞きました。
実際には古墳の周囲にまとまった人骨が出土したという例はまだ聞きません。
古墳の周囲に人垣を立てたという話しは、たぶん・・・・あちらの国の事情をこちらに記したのではないかと思います。
その証拠に、あちらの国の王の伝記とそっくりな記述もあります。日本は陵墓を高い場所で荘厳する風習です。
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