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竈山
東平郡島の中手の入り江で手の傷を癒した五瀬命(いつせのみこと)は紀の国へ到ります。
神武遠征で、この場面の位置付けが一番難しい所です。
その地より廻りゆき、「紀国(きのくに)」の「男之水門」に到りて詔る。「賎しき奴が手を負いてや死ぬ」と「おたけび」して崩御。故、その水門をなげきて男水門と謂うなり。御陵は即ち紀国の竈山在るなり(かまどやまなるなり)。 (管理人翻訳)
『竈山を周防として考えると』
(紀国とは?)
周防大島は、幻の「日本紀」と関連していたらしく、安下庄天満宮の由来に日本紀(由来では記の文字)を読誦したことが記してあります。また、周防大島の西側に「木原」という所があり、ハヤトに関連しています。位置的には室津半島の阿月の対岸辺りです。どちらも「紀の国」に結び付きます。
また、唐戸水道の波野スフィンクスの南側ふもとに木地(きぢ)という所があります。登山道の西側辺りになります。そこは万葉集にも「これやこの 倭にしては 我が恋ふる 木路にありといふ 名に負ふ背の山 (巻第一の三五)」という歌があります。
(男之水門とは?)
「男之水門」、これをどう解読するかです。現状では「をのみなと」と解読しています。
室津半島の西側に尾熊毛という所がありまして、沖に陸続きで弁天島があり、祠が祀ってあります。
周防大島の地形を地図で見ますと、尾があるように見えます。
また、男を「男王」の意味として解釈しますと、「おとこのみなと」又は「おとこの御門(みかど)」となります。女王国と男王国・・・があった、と解釈ができます。
(「たけり」と「おたけび」)
前章で旧橘町の長尾八幡宮が「たけりの宮」の跡地に建っている神社だと申しました。では、「紀の国」をどう解釈するかは、長尾八幡宮の方位線によって記してあります。長尾八幡宮の拝礼方位線は周防大島の木原を指しています。正確には木原の「延命院」という小さな堂宇です。木原を重視する意味は、上関の竈八幡宮の由来にあります。
(竈八幡宮、社伝)
大昔、日見の木という所に祓戸神(はらえどのかみ)を祀って早戸大神と称していた。
(防長寺社由来)
棟札写し・・・防州上関、竈八幡宮、或曰、早戸大明神、防州十座之随一也。
(防長寺社由来・・・八島の条)
〜 右(竈八幡宮)仁徳帝御宇迄早戸大明神と申し候処 〜〜〜。
(防長風土注進案)
当社(竈八幡宮)御鎮座之儀は上世早戸明神之古跡にして 〜〜〜。
竈八幡宮 (かまど はちまんぐう)。中二階の造りが特徴。
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では、「たけりの宮」も木原ではないか、という考えも出てきますが、たけりの宮は住まいとしての宮殿であり、その跡地に長尾八幡宮が建っていると考えられるわけです。その根拠は方位線で指し示してあります。
そして、木原の早戸大明神は古来よりハヤトの神を祀った神域です。その神域は上関(古称・竈戸関又は竈門関)に移されたわけですから、古事記にある木の国の竈山、という呼び方は成り立ちます。
周防大島の木原延命院。 周防大島八十八ヶ所の第十七番霊場。
日見大仏(西長寺)から1キロくらいの山の中腹の高台にある。
旧橘町の長尾八幡宮の拝礼方位線は、ここを指している。
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木原に関する古記録は、玖珂郡志の由宇郷の条にも記載してあります。流麗な漢文で記されたその記述は、由宇町の榊八幡宮の由来に増補されたものです。その内容は、広範囲な社寺に相当詳しい人でないと意味不明な文章でしかありません。その漢文中で特筆される部分を上げてみますと、「祇園」 「大歳社」 「疫神社」 そして、「隠してきた」という内容です。
隠したことは防長風土注進案の日見村、長楽寺の条にも記載してありまして、「近里遠境之諸人鬼病立所に平服し、疫神跡を隠す。」と記してあることにより、玖珂郡志に記載の疫神社とは、周防大島日見の長楽寺の由来にある神社と同一だと証明されます。ところが、長楽寺は西向寺と合併して現存しません。合併後の寺が現在の日見大仏のある西長寺となります。
疫神社とか疫神跡というのは仮の名称(ニックネームのようなもの)だと思います。昔には何かの流行病が起こると、すぐに何かの祟りとして考えます。また逆にその考え方を利用すると、在っては都合の悪い物を祟りの発端として定めれば、隠し除外することもできます。
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木原延命院の裏手の高台には、かって長楽寺(現、日見西長寺の前身)が在ったと伝わる。
そうしたものが在ったことを暗示しているかのごとく、高い石垣遺跡が今も残っている。
画面左に見える屋根は木原延命院。 (下の写真も石垣の延長)
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石垣の長さは相当な規模がある。
石垣の間から木々がのびているのでわからないが、高さもある。
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石垣遺跡の上は平地になっており、今はミカン畑に使われている。
伝承や方位線をもとに推察すると、ここに早戸大明神が在ったことになる。やがて早戸大明神は上関に移され、この跡地に寺が建てられたのだろう。そして、その寺に今の日見大仏が安置されていた、とすれば、海中から上げられたという由来でありながら、海中にあった痕跡の無い大仏さまのナゾが解ける。因みに、海中から上げたのは、隣地域の志佐だという伝承も、さらに考え深いものがある。
すなわち、日本屈指の大きさを誇る日見の木彫大仏は、ハヤトを供養する意味を以って、国を上げて作られ、早戸大明神の在ったこの場所に安置されていた、と考えられる。
下の写真は同一地点から仰ぐ皇座山。
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木原延命院の境内(駐車場)にて。
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木原延命院にある御詠歌。 「長楽の 昔しのばる 延命の 地蔵菩薩を 拝みまつれば」・(詠み人知れず)
この歌が詠まれた時にはすでに「昔」のことになっていたことだけは確か。
想像以上に遠い昔のことではなかろうか?。
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日見、西長寺。
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日見、西長寺の大仏殿(大仙堂)。
拝観料を払って堂内へ入れてもらったものの、撮影禁止と言われる。読者の人々にお見せしたかったが、残念だ。観光パンフレットなどにあるので、そちらを御覧ください。
修復の時のだろうか、こんな記録があった。「此の仏像彫刻時代には未だ鉋(かんな)無く、総てに鉋を用ひし跡なし。」 大仏全体を見た感じとしては、所々手打ち鍋のような感じの彫刻痕が残る部分がある。
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大仏殿の前面風景。 左側の高い山は皇座山。
画面中央の山の向こう側が尾国。その右側に小郡。
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万葉集 巻16 3822
橘 寺之長屋尓 吾率宿之 童女波奈理波 髪上都良武可
橘の 寺の長屋に 我が率宿し 童女波奈理は 神上げつらむか
たちばなの てらのながやに わがゐねし うなゐはなりは かみあげつらむか
(管理人独自の解釈)・・・
「橘の寺の坊舎に私は宿をとっている。伝説を思うと、神の罪を上げてしまいたくなる。」
「童女波奈理(うなゐはなり)」とは、古事記などの神話から発生した造語だと思われます。
木花の佐久夜姫と石長姫の二人を語っているようです。童女は文字通り童女でわかりますが、「波奈理」は宇波奈理(うはなり)として、後妻を意味しているのではないでしょうか。木花の佐久夜姫が後妻(ウハナリ社の祭神は佐久夜姫)ですから、石長姫が童女ということになります。二人を合わせた造語だと思われます。
二人のことは、このホームページの「大野」の章、気比の大神(内部リンク)での解読文が参考になります。
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西長寺本堂。 本尊 西向不動明王。 山口十八不動三十六童子霊場 第十六札所。
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万葉集 巻16 3823
橘之 光有長屋尓 吾率宿之 宇奈為放尓 髪擧都良武香
橘の 光る長屋に 我が率宿之 宇奈為放尓 神、子を取らむか
たちばなの ひかるながやに わがゐねし うなゐはなりに かみ、こをとらむか
(管理人独自の解釈)・・・
「橘の豊日命にまつわる坊舎に私は宿をとっている。伝説によると、童女も付けて差し上げたというが、神よ、子を取らないか。」
この歌も古事記などの木花の佐久夜姫の神話(内部リンク)がもとになっているようです。
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日見地域。
画面中央に西長寺。画面左側の中腹に木原延命院がある。撮影している後方に海。
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次に上関です。
上関には御汗観音(みあせかんのん)と呼ばれている寺院(下の写真)があります。
上盛山(かみさかりやま)の中腹にありまして、断崖の洞穴に高さを合わせて建てられた寺院です。
竈八幡宮の拝礼方位線は、この近くの丘(画面左上方向の丘)を通っています。
人里離れているため、御本尊を守るための鉄とびらが目をひく。
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御汗観世音菩薩の由来 (境内にある解説板の文章です。)
そもそも御汗観世音菩薩とは、全ての人々を弘誓したく御石に御容姿を自現され、その御尊体の、み胸に霊滴とおぼしき潤いをいだかれておられるために、世々相伝えて「みあせ観世音菩薩」と呼称され、霊験は著しいものがあると伝えられております。
その昔、ここ上関長島上盛山の中腹で、この山中は渓谷な洞門石壁で廻りは崖が高く、いつも紫雲がたなびき、夜毎に佛光が照りはえておりますので、村人達は唯々不思議に思いながら歳月を過しておりましたが、折しも正保三年(1647年)弥生三月仲八日の明け方のことでした。上関の在の中島屋太郎衛門という至って信仰心も厚く正直無我の人の夢枕と桂樹比丘(明関寺住職)の夢枕に「吾鹿水の幽渓に埋もれて幾久し再び世にい出て衆生を利益せん」というお告げがありました。二人は大いに驚き、翌朝一緒に、彼の鹿水の渓に至り、探し求めて、観音様の御尊体を拝すことができ、御慈悲深い御容姿に歎声を溜め満感の涙が袂を湿しました。
御尊体は石壁の中にあって土で極度に汚れておられ、二人は水があれば御潔めできるのだがと話しているうちに、不思議とそこに水溜りが湧きい出てその水で御潔めしましたが、充分といえず、もう少しの水をとお願いしましたところ、その隣りに二つ目、更に三つ目の水が湧きい出、十二分に願いを果すことができました。この三つの水溜りは「三ツ川」の由来として、ここから約百米登った所に現存し、昔のままで大きくも小さくも、ならない不思議さがあります。それ以来、村人達は、この渓谷を「観音の谷」と呼びました。
御尊体は浄土宗阿弥陀寺に奉安置され、毎年四月十七日、十八日の二日間、大祭が盛大裡に奉修されております。・・・ (まだ続きますが、割愛させていただきました。)
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御汗観音境内より仰ぐ皇座山。 先ほどの日見や木原は皇座山の向こう側になります。
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竈八幡宮より上関の町並みを望む。
竈とは、塩を焼く竈を意味しています。
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