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出雲に到達する方位線を持つ社寺
土穂石八幡宮
山口県柳井市新庄
撮影 2008年11月 Camera Canon S70
現地状況再確認 2013年7月(変化無し平穏無事)
土穂石(つつぼいし)八幡宮は、太古の柳井(やない)水道跡(からと水道跡)の南側すぐ脇にある神社です。
この辺りは古代史の人物像を解くうえで極めて重要地点でもあります。古事記はなぜ推古天皇(女性)で
終っているのか、私はそこに般若姫伝説との共通性を見るのです。つまり、般若姫伝説は実在した人物を
モデルに多方面から仏教色豊かに脚色されています。多方面とは人物をも含んでいます。物語に何人もの
人物背景を絡ませ、主要なモデルになった人物こそが推古天皇なのです。推古天皇の初代陵墓は平生町の
阿多田半島(島)の突端にある阿多田古墳です。やがてそれが人々の移住と共に近畿に改葬されます。
古事記には推古天皇の陵墓は大野の岡の上にあったとあります。それは今の平生町大野の上にある
箕山の「神武さぁ」のことではないかと思います。また、大野から箕山に登る道の中腹には推古天皇創建と
伝わる松蓮寺(現・神護寺)があります。そうした事を見ますと、入水して果てた般若姫とは、推古天皇やその
周りの様々な人物像を絡ませて編纂されていると見るのです。では入水は事実か、という事に関しましては、
からと水道にあったという幻の仏塔(大寺)が明解に語っています。その大寺の名を今は幻の濡田(ぬれた)廃寺
と言っています。そもそもその謂れからしてナゾが多いわけですが、明治時代に山陽本線敷設中に出たという
直径2メートルの礎石。その礎石を破砕して鉄道工事に使ったといいます。山陽本線は写真をご覧のように
からと水道の真っ只中、かっての海中最深部を通過しています。そこに直径2メートルもの礎石が出るわけです。
としますと、その礎石が出た地点には海中に浮かぶ大寺院(仏塔)があった、と見ていいと思います。
諸本によっては船で礎石を運搬中に沈んだものだろうと推理している本もありますが、もしそうなら破砕した礎石
の中に納めてあったという仏像や仏舎利(行方不明)は、なんだということになります。仏像や仏舎利は建物が完成
してから納めるものです。やはり海中に浮かぶ大寺院があったと見ていいと思います。そここそ般若姫(推古天皇)の
入水地点であるのです。だからこそ海中に浮かぶ大寺院なのです。今の厳島神社のような体裁があったと考えられます。
また、その幻の大寺院で詠まれた万葉歌があの有名な三山歌である、ということにもなります。
土穂石八幡宮はそうした謂れ深くナゾの多い所に建っている神社です。
土穂石八幡宮付近から東側を見た風景です。
土穂石八幡宮付近から西側を見た風景です。
土穂石八幡宮付近から北側を見た風景です。
土穂石八幡宮付近から南側を見た風景です。
一の鳥居です。
二の鳥居です。
IXY
玖珂郡志(享和年中編纂)より引用(部分口語訳・一馬)
土穂石(つつぼいし)の名たるや、村長云、宮の東北の隅、百歩計、落々として巨石(神宝石)多し、
昔、貧民夫婦あり、滞穂(たいすい・取り残された穂の意味)を拾(ひろ)いて以ちて神に供える穀物となし。
拾ふ所の滞穂を霑泥(てんでい)の土器に入れて、巨石の上に置き(神宝石と云)神に献ず。
多年怠りなく、神、その実心を感じ福を降したまふ。その家夫婦ついに富み人となる。
境内から西の方向を見た風景です。
からと水道跡は画面の右側を通り、波野行者山のふもとへ通じています。
IXY
境内から目線を少し南側に向けますと、初代岩戸の呉麓山が遠望されます。
土穂石八幡宮の方位線分析
位置
北緯 33度58分09.6秒
東経 132度05分28.7秒
精度 +− 4m
拝礼方位 110度
方位計測 2008年10月
再確認 2013年7月
土穂石八幡宮の社殿に向かって右手方位線です。
鹿児島県の大隅半島、志布志湾沿いを通っています。
この図の中で方位線は三ヶ所の古墳群を通過しています。
北側から順に、横瀬古墳群、唐仁古墳群、塚崎古墳群です。
こんどは社殿に向かって左手方位線を見ますと出雲に到達します。
出雲の広域図です。
以下、これを南側から順に拡大して見ていきます。
神西湖の所です。
浜山公園の丘を通過しています。
もっと拡大してみます(下の図)。
赤ラインが土穂石八幡宮の方位線です。
その左隣りの鉛筆線は、周防大島の北辰妙見宮(志度石神社)神殿の線です。
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