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神武 熊野村についての考察



 神武遠征は竈山の段で終りです。

後で、もう一度、坂出方面に遠征しているようですが、一応、竈山で終っているようです。

 文章では続けて書いてあるので錯覚しますが、熊野村からは初代夜麻登を侵略した記録です。

そうした訳で、熊野村から忍坂(おさか)までの侵攻順が問題になります。私は今まで

熊が出て来ることにより、中心部の侵攻が先にあったのだろうと信じ込んでいました。

しかし、どう考えても不可解な面はぬぐえません。

下の図はその不可解な記述通りに進んだ場合を表わしてみました。




どう考えても、これではおかしいです。

通常、侵攻する時には外側から崩して行くはずです。


この不可解な部分は、萩市から出ている足あとの神社群を検証することによって見えてきました。




この間、追記予定。




物語の記述は、あれもこれもと入っています。その余剰分を差し引く(とばす)と、

熊の村からヤタガラスの段に進みます。ヤタガラスに先導させたという記述です。

ヤタガラスからの記述が問題になります。ヤタガラスとは子供のことです。黒い衣服を着た子供。

たぶん人質にとられた子供たちを意味しているのだろうと思います。

人質にとられていたことは、昔から伝わる猪の子石の祭事で明瞭になります。



まず吉野川、これは「 吉の川 」と読めば地域の由来と合います。

その由来とは防長風土注進案の嶋田村に記してあり、

「 吉祥寺衆徒の輩は吉の字を定紋とするよし 」とあることから、

吉の川 ⇒ 衆徒の川、という意味が成り立ちます。




ここでは古事記の記述順で進めてみることにします。




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