トップページに戻る   アルバム目次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


祝島

フィルム写真アルバム

2009-4/25より私のブログに掲載していた写真です。 こちらへの移設 2012年9月。





















約十数年前、祝島へ2回渡りました。
2回とも祭りの時期をはずした普段の祝島です。
島の古老にお会いして、あれこれとお話しを伺いもしました。
神庫に眠る神舞船も見せていただきました。
その結果、私が出した結論です。

参考資料・上関町教育委員会・発行 「周防祝島の神舞行事」



昭和53年発行の本なので、購入は教育委員会に在庫が無いかもしれません。
委員会に無い時には、周南市のマツノ書店に問い合わせてみられるといいです。



操船技法は基本的にカッターボートと同じですが、すべての操船技法を会得するには、
櫂1本で操船する伝馬船の技法を修得する必要があり、ある程度、熟練を要します。

その伝馬船の操船技法と、カッターボートの操船技法とを組み合わせます。
そうすると、船に下図のような方向性を問わない動きをつくり出すことが出来るようになります。
船首と船尾の指令によって、船を自由自在にどの方向へも動かせるのが大きな特徴です。








その自由自在な船の動きは、海戦に極めて強い威力を発揮します。
その強さのほんの一例を上げてみます。

海戦において、停船させた敵の船に自分の船の舷(横腹)を見せることは、
敵に前面から体当たりをされる危険性があります。
必ず敵の船に船首を向けていなくてはなりません。
そうした場合には、上図のような動きをすることが出来ます。
また、船首の方向を変えずにクランク操船も出来ます。

こうした自由自在な動きによる海戦の強さは、
まさに無敵を誇っていたのでしょう。

しかし、その強さが敵国に情報として知られていたらしく、
敵国は侵攻の際に海側から攻め込まずに、日本海側から
内陸部の山岳地帯を経由して陸戦に持ち込んでいます。
強い海戦も出番が無かった訳です。

敵国の侵入ルートは神社で記録してあります。





この船は神舞船です。
古代から伝わっているのは「櫂」です。








防長風土注進案 岩見嶋
古稱祝嶋と申由、此地岩石多き故岩見島と唱来候哉







宮戸八幡宮




宮戸八幡宮
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


山口県風土誌
祝島

名義
注進案に、古称祝島と申由、此地岩石多き故、岩見島と唱来候哉。万葉の古歌に、
家人は帰りはやこと祝島いはひ待らん旅行我を。又宗祇法師、岩たたむいはひ島なる岩つつし
咲く時名のれ山郭公。是香箱辺の風景をよみたまへると云へり。又傍の小島、小祝・孫祝と称するも
皆此辺の名より出たり。今猶諸国の船人は祝島と唱の由に御座候と見ゆ。按るに、ヒミ横音相通を
以て岩見と訛れるならん。慶長検地帳以降岩見島なりしが、明治九年十一月古名に復せり。







1回目に渡った時には帰りの船の時間を確認していなくて、
最終便に間に合わず旅館に一泊しました。
上・1枚、旅館の部屋から撮影した写真です。







早朝の祝島漁港




この造形美には思わず見とれてしまいます。




歴史のヒントになるものを探して、島の西側まで歩いて行くと、
小祝島がよく見える丘にたどり着きました。絶景です。




無人島ですが、ここから見ると意外に大きな島です。




童話に出てくるような素敵な家を見つけました。




登って行くと、貯水池らしき工事現場に着きました。
今は工事も終って奇麗になっていると思います。
祝島の山頂近くです。




室津半島の方向を見て撮影。
こんな人里離れた所にも人家があります。
近づいてみると、その多くが廃屋です。
貯水池のすぐ脇にも、ほとんど雑木と同化したような廃屋がありました。
昔は随分りっぱな屋敷だったんだろうなと思いました。
今の時代、こんな自然豊かな所に住むのは叶わぬ夢なんでしょうか?




祝島・渡船乗り場
画面右の船が当時の渡船ですが、今は新しい船になっています。







ありがとう、祝島。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トップページに戻る    アルバム目次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・