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作山古墳
(国指定史跡)

所在地 岡山県総社市三須

N 34度39分53.8
E 133度46分11.2
位置精度 +- 4m
後円部上の隅で計測




山陽自動車道の倉敷インターをおりて、国道429号線を北上します。

国分寺西 交差点を左折。あとは上図の通りです。

黄色丸印の所が遺跡専用の駐車場です(下写真)。

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現地写真撮影 2015-2/18





黄色矢印の所に古墳へ登る道があります。

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前方部の角を登って行きます。

古墳自体が巨大で、古墳を登るというよりも、山登りをしているような感じがします。

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この作山古墳も、隣りの造山古墳も、前方部の先端が丘になっています。

上の写真は、その丘から後円部方向を見たものです。




丘になっているという部分が他の前方後円墳との大きな違いなのですが、

これは削り残したとかではなく、この丘は祭祀場として最初からそうしてあったようです。

その詳細は造山古墳のページで説明しています。こちらです(内部リンク)。




この前方部先端の丘から日の出を見ますと、後円部の右側方向から昇って来ます。上写真の方向。

夏期の日の出の折り返し点は後円部の背後に最も近付きます。そうした事を見ても、

この丘で後円部方向へ向いて、昇って来る太陽に向かって拝礼祭祀していたのでしょう。

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前方部から見た後円部の丘です。

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後円部の上は平坦地になっており、かなりの広さを持っています。

見たところ、なんとなく、後世に造成されたような感じがあります。

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後円部の上から前方部方向を見たものです。

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後円部の西斜面。

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後円部の南斜面。

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作山古墳の前方方向に在る丘について。









作山古墳の先端に在る小丘は意味があり、古墳と一体です。

上図を見てもわかりますように、赤子山をモチーフにして造られています。


ということは、この作山古墳は、モチーフとなる室津半島が全て備わっていることになります。

全て備わっているということは、初期の築造になります。

それぞれの古墳を築造順に並べると、岡山県では以下の順序で築造されています。

楯築 ⇒ 作山 ⇒ 造山 ⇒ 近畿

この順になる証明として、順々に削除されています。先ず作山古墳には全部揃っています。

造山古墳になると赤子山が削除されます。やがて近畿へ移ると、大星山が削除されています。

要は、作山古墳と造山古墳は前方後円墳といえども、弥生時代の築造に匹敵するほど古く、

前方後円墳が形造られる初期の体裁を有していることです。


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作山古墳・方位分析


N 34度39分53.8
E 133度46分11.2
位置精度 +- 4m
後円部上の隅で計測

主軸線・前方部の方位  225度




作山古墳・前方部方向主軸線





作山古墳の前方部方位は神武東征で知られている高島を指しています。正確には隣りの神島ですが、高島と見ていいと思います。ということは、

作山古墳は神武東征の記録的な意味を備えていることになります。作山古墳の隣りの造山古墳の方位線は高梁川の河口を指しています。

それは侵攻順路を記録しています。高島を拠点にして、高梁川をさかのぼって鬼城山を制圧した、ということです。

吉備の神武東征は高島(神島)を拠点にして高梁川組と、児島湾の高島組とで二手に分かれます。そうして鬼城山側と児島湾側とで

吉備の中心地を挟み撃ちする戦法をとっています。だから吉備の古代史は、いつも二つ有り、どちらが本物かで争って来ました。どちらも本物です。


繋がりの見えてくる事として、上図の黄色付箋で指している笠岡市の西大島という所に津雲貝塚という縄文時代終末期の貝塚があります。

そこからは約170体もの人骨が出土しています。170体はあまりにも数が多いです。そのすぐ沖には神武東征の高島があることから、

侵攻の犠牲になった人々と考えることができます。不信に思うのが、貝塚というのはゴミ捨て場なんですね。いくら古代人とはいえ、

亡くなった人をゴミ捨て場に放り込むということはしないはずです。・・・ということは、敵方の手によって埋葬されたとも考えられます。

幼児などは甕の口を欠き割ってそれに詰めて別の土器で蓋をして埋めてあったそうです。普通ではないです。


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笠岡・福山と通過した方位線は、やがて愛媛県今治市に上陸します。一見、何も無いように見えますが、

方位線は松山城を指しています。松山城と五色浜です。重要な地点は松山城です。

昔は築城に際して、王である古墳の主に守護していただくという意味において、古墳の上に城を造ることもあったようです。

それを如実に現わしているのが造山古墳です。造山古墳に城は残っていませんが、後円部は城として造成されています。

松山城の地形を衛星写真で見ますと、巨大な前方後円墳を使って築城されたような形跡が見られます(下写真)。





この松山城の築城以前は確たる資料も無く、地形から推察するしかありません。しかし、地形だけでもなく、

作山古墳の前方方位にピタリと入っているということは、元古墳だったという証明の1つになりましょう。 さらに、

これが元前方後円墳だったと仮定して、主軸線の方位を出してみますと、約 140度です。その北主軸線は

島根県益田市のスクモ塚古墳へ到ります。

そうした事実を見まして、この松山城は前方後円墳の後円部に築城されている可能性があります。

古墳利用の築城は後でも出てきますが、徳島県阿南市の牛岐城跡などは元古墳の形跡が窺えます。


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上側の付箋は、京ヶ峰横穴群 (熊本県球磨郡錦町西蓑毛田) です。

岩に浮き彫りや彩色などがありまして、六世紀という見解が出ていますが、そんなに新しくはないです。

その理由として、浮き彫りの絵柄が原始的であり、もし六世紀なら神像や仏像を彫るはずです。

浮き彫りの図柄によく似た物が銅鏡などでも見られます。そうすると、神道や仏道が出現する前の

時期の原始信仰であり、神々は洞窟から現われた、という洞窟そのものを神々と崇める洞窟崇拝

であると結論付くのです。始発点は洞窟崇拝であり、後の世にその洞穴を再利用したと見ます。


下側の付箋は、山ヶ野金山 (鹿児島県霧島市横川町上ノ) です。

鎌倉時代頃に端を発するといわれていますが、伝説から推察して、始発はもっと古い鉱山です。

その伝説とは、「赤牛が寝たような形の岩が金である。」という夢のお告げから推察できます。

このページの分析を最後までご覧になれば、わかると思いますが、この作山古墳の方位線は

前後左右に金属遺跡を指し示しています。


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作山古墳・後円部方向主軸線




後円部方向の主軸線です。

月の輪古墳 (岡山県久米郡美咲町飯岡)

吉井川と吉野川の合流点を見おろす山(海抜約320m)の頂にある径59mの大型円墳です。

四世紀末から五世紀初頭の物であるという見解が出ています。

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但馬国府・国分寺跡 (兵庫県豊岡市日高町祢布)

祢布(にょう)ヶ森遺跡と呼ばれており、大規模な掘立柱の建物群の跡が発掘されています。

祢布ヶ森遺跡は、今の「但馬国府・国分寺」の約百メートル東側にあります。


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銚子山古墳 (京都府京丹後市網野町網野)

神明山古墳 (京都府京丹後市丹後町)

扇谷弥生集落遺跡 (京都府京丹後市峰山町丹波)


銚子山古墳は全長約200m、日本海側最大規模の前方後円墳です。見たところ、前方部先端が丘になっていて、

そうすると初期型の前方後円墳であることになります。四世紀末から五世紀初頭の築造という見解が出ています。

神明山古墳は全長約190m、銚子山古墳に並ぶ巨大古墳です。二つ並びは、今分析している作山・造山古墳と同じです。


さて、この丹後地方になぜこれほど巨大な墳墓を築造できたのかという点について、扇谷弥生集落遺跡が示しています。

扇谷弥生遺跡のある丹後半島周辺は砂鉄が豊富な所です。弥生時代前期の頃にはすでに砂鉄を原料とした鉄製品

鋳造されていたようです。日本では弥生時代という表現をしますが、これは紀元前300年の頃になります。その頃には

すでに鉄製品が作られていたということは、後に巨大古墳が築造された事と密接な繋がりがあると言えましょう。


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作山古墳・前方部方向に向かって右手方位線


造山古墳には荒神社があって、古墳の主軸線に対して直角方向へ向いています。その事は、

近隣の古墳は十文字方位で分析してほしいという古代からのメッセージではないでしょうか。

もしそうなら当然、作山古墳も十文字方位で指し示してあるはずです。では見てみます。




鉛筆で指している所にそれぞれの遺跡があります。距離にして約2キロの所です。

この方位線を、奥出雲のたたら製鉄との繋がりと見れば、十文字方位線の

指しているそれぞれの金属遺跡への関連性とが合致します。なお、たたら製鉄は

薪を多量に必要とするため、主に中国山地の県境付近の山中に散在します。


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作山古墳・前方部方向に向かって左手方位線




香川県に入った方位線は、五剣山を経て志度寺に到ります。

真言宗 志度寺  香川県さぬき市志度  四国八十八か所 86番札所

創建 推古天皇 33年 625

堂宇拡張 持統天皇 7年 693

能楽 「海士」の「玉取り伝説」が伝わる。


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阿波国府跡 徳島県徳島市

矢野遺跡 徳島県徳島市国府町西矢野


阿波国府跡は、未だ中心となる遺構が検出されておらず、推定の状態です。発見が待たれます。

阿波国府跡の推定地になっている辺りから数百メートルの所に矢野遺跡があります。

矢野遺跡では竪穴住居跡が約100棟発見されており、徳島県では最大規模の弥生集落です。


矢野遺跡では後期型の銅鐸が出土しています。 また、最重要な事として、砂鉄の貯蔵品が出土しています。

砂鉄の貯蔵品が見つかったのは竪穴住居跡で、古墳時代前期初頭という見解が出ています。

長軸6.8m×短軸6.3mの方形の竪穴住居跡の真ん中に炉の遺構があり、炉内から鉄片が40点以上出土し、

また床面で使い込まれた砥石が2点出土しています。問題の貯蔵砂鉄は、床面よりやや浮いた状態で

細頸壺の中に砂鉄が約200g貯蔵されて見つかっています。

床面よりやや浮いた状態ということは棚などに上げてあったことを意味します。



ここで、今まで見て来た作山古墳の方位で、金属に関する遺跡を挙げてみます。

前方方向 ⇒ 鹿児島県 山ヶ野金山跡

後円部方向 ⇒ 扇谷弥生遺跡 砂鉄製鉄

右方向 ⇒ 奥出雲 たたら製鉄

左方向 ⇒ 矢野遺跡 砂鉄製鉄

以上のように、作山古墳は前後左右に製鉄遺跡を指し示していることがわかります。



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弁慶の岩屋古墳 徳島県小松市芝生町大嶽

表土が流失してほとんど崩れているようです。

6世紀後半の築造という見解が出ています。


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牛岐城跡 徳島県阿南市富岡町殿町

先述した松山城と同じで、作山古墳の左方位線は、この牛岐城を指しています。

下写真は牛岐城跡の衛星写真です。

町道を造るため真ん中を分断されていますが、本来は南北続きの丘だったそうです。

丘の下側(南側)が城跡です。この南側が後円部に相当するのが見てもわかると思います。

上側(北側)には新開神社が祀ってあります。神社側を前方部として見ますと、造山古墳も

前方部先端に荒神社がありますので、そっくりな形態を持っていることが見えて来ます。





この牛岐城跡を前方後円墳であると仮定して、衛星写真を基に主軸線を計測してみますと、約 15度になりました。

北側主軸線を伸ばしてみますと、まず淡路島に到ります。先月(2015-5/19)に銅鐸が発見された所です。

牛岐城跡の主軸線をさらに伸ばしていきますと、神戸を通って京都府京丹後市に到ります。およそ天橋立

周辺になります。遺跡をピックアップしてみますと、まず、蛭子山古墳群が挙げられます。また、近くには先述した

扇谷弥生遺跡があります。さらに、この牛岐城跡の主軸線は京丹後市の元伊勢に関係する神社を指し示しています。



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以上の作山古墳の方位線分析結果としまして、

これほど全国規模な製鉄遺跡を古墳が指し示しているということは、滅びを意味していると思います。

たとえば例を挙げてみますと、矢野遺跡で発見された貯蔵砂鉄。古代人にとっては大事な物ですよね。

土の中に埋まってしまうような物ではありません。突然に襲って来た何かに滅ぼされてしまった、としたら、

吉備の作山古墳の訴えているところ、すべては吉備王国の滅びと連動していると推察できるのです。

笠岡市の津雲貝塚、すぐ沖に高島を見る所に 170体もの人骨が出土した事実が端直に訴えているようです。





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