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     氷室岳 登山記   撮影 2008-7/10 (最初の一枚のみ2006-11月)  



 伊陸から仰ぐ氷室岳。
 狛犬の形であり、どう見ても由来記にある富士山の形には見えない。
 どこから見たのだろう。

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 2008年7月 
 氷室岳は標高563メートルの山です。
 氷を保存しておく室があったのでそう呼ばれている、というのが通説です。私もその説に異論は無く、氷を保存するための塩に関係する地名も伊陸に残っていることからして、仕入れた氷を保存していたのは事実だと思います。また、近隣には鍛冶に関係する地名や鍛冶場遺跡なども出土していることからして、氷は主に鍛冶作業に使われていた可能性があります。

 氷室岳を掲載するにあたり、確認の意味もあって、一度歩いて登ってみることにしました。歩いて登山すれば、見えなかった部分も見えるかもしれないと思ったからです。私は本来、冬山登山を中心にしており、夏期の登山は草木はもとより虫や動物の活発化する時期でもあります。そもそも遺跡を見る(発見する)には夏期の草木が茂る時期は不向きです。不向きな季節だということは百も承知のつもりだったのですが、今回はどうしても必要に迫られ、登山することにしました。


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 高山寺までの道案内   



 山陽自動車道・玖珂インターを出た所の瀬田下バス停より5・9キロ地点です。
 交差点の向こう左角にセブンイレブンがあります。

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 前の1図から約1キロ地点です。
 通り過ぎてしまう可能性のある地点です。横断歩道を目印にするといいと思います。

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 この風景があれば大丈夫です。

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 石柱の所は直進します。
 すぐに次の5図になります。

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 左に入って行けば、すぐに高山寺の駐車場です。

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 氷室岳登山には、参詣して駐車をひとことお願いしておけば安心です。

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 氷室岳登山ルート案内  



 来る時にはこちら側から来ました(5図)。
 高山寺の駐車場を出て、矢印のように進みます。

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 画面中央の高い山が氷室岳です。今から歩いてあの山に登ります。

 画面左側の岩山の中腹にお地蔵さんが祀ってあります。
 この岩山は高山寺の拝礼方向に在るんですが、よーく見ると、いろんなものに見えてくる不思議・・・。

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 集会所の軒先の辺りに見えているのが氷室岳です。まだまだ先は長いです。
 道路脇の小さな水路には氷室岳からの湧水が気持ちいいくらい流れています。

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 真っ直ぐ進むと、農園で行き止まりだったと記憶しています。
 お地蔵さまの分岐を矢印の方へ進みます。

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 昔の由来記を解読しますと、本来は山頂に氷大明神というのが祀ってあって、やがて8合目付近に下ろされ氷室大権現と呼ばれます。その後、この2合目近くに下ろされたようです。また、北側の祖生地域とも関連しています。そして、やがては氷室亀山神社として現在地に遷宮されたようです。
 このすべての場所を特定するべく、今回は徒歩で登ってみました。しかし、前述したように夏期は草木が生い茂り危険でもあり、遺跡の写真撮影は冬季まで待つことにしました。いずれ撮影して補足するつもりです。

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 この氷室林道は私が16歳の時にはすでにありましたから、40年以上も経ている林道です。
 当時は人の頭大の石があちこち転がっている険しい道でした。



 全体的にこの位の道幅です。
 私の車でもラクに登れる道幅ですが、雨季はコンクリートの下の土が流れていることもありますので路肩にご注意ください。

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 登って行くと、一ヶ所ほど Y字になった分岐点があります。左方向です。

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 さらに登って行くと、未舗装の林道が出ている所があります。舗装路を進みます。

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 登山道の展望は木々に遮られて全然見えませんが、一ヶ所だけ展望の開ける所がありました。休憩です。
 上下の写真はそこで撮影。伊陸盆地を眺めながら、ずいぶん登ったものだと感動する地点です。




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 氷室林道の終点です。頂上直下です。
 車の方向転換ができる程度に広くなっています。

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 林道終点から段々が昇っています。
 車で登って来た人も、ここから頂上までは歩かなくてはなりません。コンクリート造りの段々が延々と・・・(笑)。
 実は、この段々がものすごくキツイんです。徒歩で登って来た人も、この段々でバテる、というくらいです。

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 やっと頂上です。この段々でドッと汗が出ました(笑)。
 所要時間・・・高山寺−11時30分発〜〜〜頂上着−12時50分 (休憩、撮影時間含む) 1時間20分位
 ここから後ろを振り向いたのが下の写真です。




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 画面右側の私が描いた矢印の所がほんとの頂上地点になります。
 そこには1m四方位でブロック囲いのゴミ焼却場があるんです。NHKさんならもう少しセンスがあると・・・(笑)。

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 この氷室岳には何度も登りました。登る度にいろんな思い出ができるんですが、今回は、たくさんのツバメ達が迎えてくれました。観察していると、実に自由自在に飛んでいます。羽をパタパタッと何回か動かしては羽を閉じて上下にウェーブを描きながら飛んでいく。その早いこと。我々はツバメといったら広い田園地帯を飛びまわっているあの飛行が思い出されますが、高度のあるところを飛行しているツバメ達は、もう全然別物みたいな印象を受けました。羽を閉じて弾丸のように飛んでいくテクニックを持っているからこそ、あの長距離飛行ができるんだなぁと、ウットリと見惚れてしまいました。見ていると、横方向にも移動できるようです。瞬間的に左右にダンスをするんです(笑)。見ている私も飛行に参加したくなるほど、実に気持ちいいくらい自由自在に飛んでいました。私がパンを食べていたので、それが欲しいのかなと思って、放ってやろうかと思いましたが、私が全部食べてしまいました(爆笑)。

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 頂上には約十メートル間隔位で三ヶ所に祠堂が在ります。祠堂は全部南向きです。
 上の写真は左側(西側)の瓦堂。 
 画面左側に先ほど話したゴミ焼却所になっているブロック囲いがあります。

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 真ん中の祠堂。
 前回登った時には格子戸が新しかったんですが、風雨にさらされるためか、すぐに朽ちてしまうようです。
 アルミだといいですね・・・NHKさん・・・(爆)。 奉納・NHK・とでも入れておけば相当に株が上がります。

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 右側(東側)の瓦堂。
 以前ここは見晴らしのいい地点だったんですが、木々が成長したのでなにか別の所に来たような気がします。



 下の写真は、この瓦堂の裏手(拝礼方向)を見おろしたものです。この氷室岳からは北側になります。
 画面の中央付近は祖生(そお)という所。画面の上の方、遠方は玖珂の町並みです。



 この山のふもとに楕円形の池が見えます。

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 ぐんと拡大してみると、こんな感じです。

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 こんどは、この氷室岳の南側を見たものです。やはり、池が見えます。

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 ぐんと拡大してみたものです。
 池が画面左下になって申し訳ないです。こんどまた、池を真ん中にした写真を撮影しておきます。

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 あの池は灌漑用として造ったものだというのが通説です。では、灌漑池として造られる前はどうなっていたのかというと、確かな資料が無い訳です。大波野の上段の池のように、もともと古来から在った池を利用して造成し、灌漑用の池にした例もあります。そうして考えると、そもそも現状は、氷室亀山神社を基準にして池を想定してあります。氷室亀山神社は由来にもありますように、氷室岳の「氷大明神」がふもとに遷宮されていった結果、氷室亀山神社になった訳です。ですから、氷室の池の所在は「氷大明神」の移って行った各過程(遺跡の位置)を検証する必要があります。遺跡の位置が証明されれば、氷室の池はおのずと導き出せるということになります。そうして研究すると、埋め立てられて存在不明になったと言われている「氷室の池」とは、今もなお存在しており、氷室岳の南北に位置している灌漑池、そして、祖生岩隈八幡宮の参道直下に在る台形の池がそうである、ということになってきます。さらには、その池こそが、かって氷を貯蔵していた氷室の跡であるということになります。(氷室が池に変わっていった想定図を下に描いておきました。)。



 ● まず、平地よりも高く緩やかな斜面を持つ丘の斜面に穴を掘ります。
 ● 深い穴を掘ると地下水が湧き出るので、水抜き用の竹管(土管)などを通します。
 ● 掘った穴に割り竹などを何層も厚く敷き詰めます。割り竹は採石などで代用したかもしれません。
 ● 敷いた竹の上にモミ殻などを敷き詰め、その上に塩を厚く敷き詰めます。
 ● 敷いた塩の上に氷塊を置いて、氷を塩で厚く包み込みます。
 ● 被せた塩の上にモミ殻を厚く被せます。
 ● 貯蔵穴の全体を覆う屋根を組み付け、茅などで厚く覆って完成です。

    割り竹の隙間を流れる地下水が貯蔵穴の内部温度を低く保ってくれます。
    モミ殻はオガクズだったかもしれません。
    下の絵は外観の想像図です。



 土管と書きましたが、竹の中を抜いた物だったかもしれません。  

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 氷の貯蔵穴が使われなくなると、屋根が朽ち、やがて水抜き穴が土石などで塞がれてしまいます。
 水抜き穴の塞がった貯蔵穴は、もはや水が溜まる一方です。
 何年もしないうちに、かっての貯蔵穴は池へと変貌してしまいます。

 こうした訳で、山肌に今も残っている池こそが、かっての氷室(貯蔵穴)の名残りでありましょう。




 祖生岩隈八幡宮、参道下にある台形の池。

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 ただ一つ、氷をどう仕入れていたか不明なんですが、降った雪を箱に入れて突き固めて氷にする方法と、氷塊そのものを寒冷地から仕入れる方法と、どっちだったんだろうかと疑問点が残ります。氷山曳航の方がロマンがありますけれど、偉い人が計算すると、日本に来るまでに融けてしまう計算になるそうです。しかし、赤道付近で曳航実験した結果では簡単には融けなかった、という話しもあります。氷山でしたらその後の石切り技術とも結び付き、祭りなどの内容とも合うわけですが、実際にやってみなくてはわからないこともあります。



 大波野・多賀神社参道にて。

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 矢印Aは狛犬のシッポに相当する山です。山の頂上が尖っています。
 その向こうにも同じ尖った山があります。この三地点を結んだ線は何を・・・。


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 柳井市史より  伊陸   
 犬の尾原 
 名もない犬が主人のために尽くして殺され、それが「犬の尾原」という地名となって残っているところが伊陸にある。戦国時代、伊陸の町野相模守は陶晴賢(すえはるかた)の家臣となって厳島の合戦で戦死した。弘治元年(1555)十月、小早川軍は、岩国から柳井へ向かう途中、町野氏の残党を討つために、浦兵部丞、飯田七郎左衛門、香川左衛門尉など700騎を差し向け、由宇から伊陸に攻め入らせた。町野氏の部下たちは氷室岳に城を構えてよく防いだ。その合戦では、味方の兵数十名が討ち死にし、小早川軍でも浦氏の家臣乃美八郎、香川氏の家臣三宅市之丞ら20〜30名が戦死した。このとき、伊陸の北畑と奥畑のあたりに小早川軍が攻め寄せた。それを見つけた町野氏の飼い犬が、敵が来たとほえ立てて味方に知らせた。そのため犬は打ち殺されたが、その跡に尾が残ったので、「犬の尾原」という名がつけられた。犬でありながら戦死した主人の恩を忘れなかったという美談が後々まで、村人たちによって語り継がれた。優勢な小早川軍のために追われた残党は、久可地でも戦ったが、ついに降参した。そのとき結ばれた助命の約束は破られて、高山寺の松の木に十七名もの者がはりつけの刑に処せられたと伝えられている。今も犬の尾、上原には、武士たちを葬って小石を積み重ねた塚が残っている。(「谷林博遺稿集」より) 

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 日本書紀 巻第二十一  
 物部守屋大連の近侍者である捕鳥部万(ととりべのよろず)は、一百人をひきいて難波の邸宅を守っていたが、大連が滅びたと聞いて夜馬に乗って逃げ、茅渟県の有真香邑(ありまかのむら)に向かい、妻の家に立ち寄ったのち、山にかくれた。朝廷は詮議して、「万は反逆の心があるから山中にかくれたのだ。急いで一族を滅ぼせ。ぐずぐずするな」といった。万は、衣服が破れ、垢だらけで、すっかりやつれ、弓を持ち剣を帯びて、一人で自分から出てきた。官人が数百の衛士を遣わして万を囲むと、万はあわてて竹やぶにかくれ、縄を竹につないで引き動かし、自分のかくれているところをわからないようにした。衛士たちがだまされて、揺れる竹を指さしてかけつけ、「いたぞ。ここだ」と叫ぶと、万はそれをめがけて矢を放ち、一つとして当らないものはない有様なので、衛士たちは恐れて近づこうとしなかった。万はそこで、弓をはずして脇にさしはさみ、山に向かって逃げていった。衛士たちは川をはさんで追いかけて射たが、みなあたらなかった。たまたま一人の衛士が、馬を馳せて万に先まわりし、川のそばに伏して弓に矢をつがえ、膝に射あてた。万は矢を引き抜き、弓を張って矢を放ち、地面に伏して、「万は天皇の御楯となってその武勇を示そうとした。それなのに、何の推問もないままに逆にこの窮地に追いつめられた。ともに語るべき者をよこせ。自分を殺そうとするのか、捕えようとするのか、それを聞きたいのだ」と大声で叫んだ。衛士たちはきそって馬を馳せて万を射た。万は飛んでくる矢を払いのけてなおも三十余人を殺したのち、持った剣で弓を三つに切り落し、さらにその剣を押し曲げて川の中に投げこみ、別の刀子で頸を刺して死んだ。河内国司は、万の死んだありさまを朝廷に報告した。朝廷は命令書を下して、「八段に斬ってばらばらにし、八つの国で串ざしにせよ」と命じた。河内国司が符の旨に従って万を斬り、串ざしにしようとすると、雷鳴があり、大雨が降った。このとき、万の飼っていた白犬が、首を振り、悲しそうに吠えながら遺骸の側をまわっていたが、やがて万の頭をくわえると、古い墓に収めおき、自分はその側に横たわって、ついに飢え死んだ。河内国司はその犬のふるまいを奇異に思い、朝廷に報告した。朝廷はたいそう哀れみ、符を下してたたえ、「この犬の行為はまことに奇特で、後の世に示すべきものである。万の同族に墓を作って葬らせるように」と命じた。そこで万の同族は、墓を有真香邑に並べてつくり、万と犬とを葬った。河内国司はまた、「餌香川原(えがのかわら)には、斬られて死んだ人の遺骸が数えると数百もあり、頭も身も腐爛して姓も名も判らず、人々はわずかに衣服の色で遺骸をひきとっております。ところが桜井田部連胆渟(さくらいのたべのむらじいぬ)の飼っていた犬は、主人の遺骸をくわえ続け、側に横たわって固く守り、遺骸を収めさせてから立ち去りました」と報告した。


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 伊陸中心部。
 今回は課題を多く残したまま山を下りました。いずれ補足するつもりです。

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 神武遠征 兄ウカシ・弟ウカシも参照ください。 (内部リンク)  

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 「戸石川」 
 刃物を研ぐ「砥石」が採れた事による名です。



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