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万葉集 巻第二 183番歌 関連写真
吾が御門 千代 とことばに 栄えむと 思ひてありし 吾し悲しも
田布施町の大内公園。 上宮の前身があった所と思われます。
ここは波野スフィンクスが右前足で香炉を持っている位置になります。
縄文、弥生遺跡でもあります。
この丘からは初代ヤマトの主要な山々がほとんど遠望できます。
そうした良い条件があったからこそ初代の上宮だったのでしょう。
それらの山々を挙げてみます。
建物の屋根の右側に遠く見えているのは三ヶ岳と琴石山です。
左側の遠くの山は大星山です。
画面真ん中のこんもり盛り上がっている丘(左側)が本来の高さです。
地表を約 3メートルぐらい削り取られているので、今はもう何も出土しません。
大星山はこのぐらいに見えます。
滑り台の向こう側の手前から、小山(万葉香山)、波野行者山、石城山、と並んでいます。
長田(おさだ)の丘もよく見えます。
大内公園の西側の田布施町祇園には八坂神社があります。地元では「祇園さま」と呼ばれています。
JR山陽本線・田布施駅から歩いて五分位の所に在り、境内からは麻里府の方までをも遠望できる絶景な場所です。
防長寺社由来より
波野村祇園 長合(ちょうごう)と申す所
この御社年号詳らかならず。
然るところに年々当村疫病流行、なお又、牛馬病も多く、よって人々信仰し、病難も鎮まり候につき、
明暦年中の頃よりも神位も重し神徳日ごとに増す。それ故、宝暦年中に御社再興、なお又、明和七庚寅に又々再興し候。
御祭り六月七日より十四日まで市中相調申し候。長合よりも六月九月に御祭し候事。
祭神・スサノオノミコト・稲田媛神・(ここ漢字使えず・虫に也)毒気神(どんな神なのか不明・・・じゃーどくけーの神・・・鉾神のことらしい)
「祇園」という言葉は阿弥陀経にある一節です。阿弥陀経の冒頭に出てくる「祇樹給孤獨園」(ぎじゅきっこどくおん)という一節からの引用と謂われています。
我々は通常、祇園というと仏の園というふうに解釈しています。阿弥陀経を開きますと、仏の弟子達が悟りを得るまでの長大な物語が展開します。
なぜここが祇園になるのかという疑問は、下の写真を見てください。
祇園の隣りにある大内公園から西の方向を見たものです。
大内公園は初代の上宮跡地だと申しました。
その上宮跡の西に祇園があり、岩戸があります。西方極楽浄土を想った名残りでもありましょう。
万葉歌の方も、「千代とことばに」とあります。これに区切り線を入れますと、「千代 / とことばに」となります。
「とことば」です。私はまだ見たことはないのですが、仏足石歌に「とことば」という言葉が出てくるそうです。
(仏足石歌)
奈良薬師寺の仏足石歌碑に刻まれた二十一首の歌。575777と七音多い(短歌は57577)。
田布施町祇園・八坂神社方位
拝礼方向 ⇒ 島根県江津から温泉津にかけて
社殿前面方向 ⇒ 大分県臼杵(石仏) ⇒ 延岡 ⇒ 西都原古墳群の東側 ⇒ 宮崎神宮
社殿に向かって右方向 ⇒ 笠佐島 ⇒ 小松・志田岸八幡宮 ⇒ 旧東和町森(西方寺・法心寺) ⇒ 石鎚山
社殿に向かって左方向 ⇒ 豊浦町
上の写真は、旧東和町森にある法心寺の宝物です。
像の全体高は約40センチ位だったと思います。
顔や姿のよくわかる像であり、国宝に指定されてもいい像だと思います。
なんといっても胎蔵界を表わすデザインが素晴らしい。
これは誰と誰かという事は、貝殻にあります。
向かって左の人物が「市の辺の忍歯の王」(仁徳天皇)、
右の人物が「袁祁の石巣別の命」(荻天皇であり、聖徳太子)。
田布施町祇園・八坂神社は、この法心寺を指していることにより、
万葉歌に仏足石歌の一節が入っているのも納得できます。
この左側数百メートルの所に山陽本線JR田布施駅があります。
線路は神社の裏手下を通っています。
この道路は神社の丘を削って近年に造られた道路です。
それまでの参道は真っ直ぐにこちらに降りていたそうです。
享保年中 (1716〜1736) に編纂された防長寺社由来には「波野村祇園」とあります。
境内からは大星山や、ふもとの大野がよく遠望できます。
大星山を遠望しつつ舞が奉納される境内。
南向きの前面は、麻里府方向を広く遠望しています。
前面方位は臼杵石仏から西都原を経て宮崎神宮へと至ります。
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