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 木原延命院と西長寺の研究  




 (本の出版用に書いていた文章のコピーです。図など無く、少しチグハグですが載せておきます。)

(木原延命院についての研究)
 木原地域は、なぜか単独では古記録に記載してありません。私の閲覧不足かと何度も資料を開いてみましたが見当たりません。これと同じように単独記載無しという点に於いては、伊保庄の神出(前巻参照)などと共通した面を持っているようです。そこを記載すると都合が悪いから載せていない、又は記載は有ったものの削除されてしまった、と考えられます。少々意地の悪い考え方ではありますが、その地域を研究していくと極めて重要な地域になってくるわけですから、そう思わずにはおれません。
 木原地域は日見大仏殿の近くに位置しており、距離としては1キロくらいでしょうか。前面に瀬戸を見おろして棚田が昇っている静かな里です。前面には瀬戸を隔てて室津半島があり、望める山は皇座山です。木原地域の何処にいても、対岸には常に皇座山があります。
 長尾八幡宮の拝礼方位線をたどってみますと、木原延命院という小さな地蔵堂を通過します。周防大島八十八ヶ所の第十七番霊場に指定されているその御堂は小柄です。本尊は地蔵菩薩を安置してあります。
 木原延命院から海側を見ますと、左右両側に山が迫っており、中央の谷間に棚田や民家があります。そうした遠方に室津半島の皇座山が大きくそびえ立っています。
 前巻で研究したように、古代の人々は亡くなった人を山に見たてて賛美する風習があったらしく、歌や記録をもとに室津半島の山々に人物を設定していきますと、皇座山は五瀬命でした。五瀬命は隼人であり、上関の竈八幡宮とつながっていました。(前巻参照)そのことを頭に置いて、もう一度たどってみます。
 先ず、長尾八幡宮の指す所は木原延命院です。木原の前面には五瀬命に相当する皇座山があり、皇座山の向こう麓には木原早戸大神とつながりのある竈八幡宮がある、竈八幡宮は、かって早戸大明神と呼ばれていた。こうした事を見ても、木原延命院は早戸大神と何らかのつながりを持っていることが見えて来ます。
 木原延命院の周囲を見回してみると、石垣を重ねあげて造った棚田が大部分を占めています。少しオーバーに見ると、まるでペルーのインカ遺跡そっくりな感じさえします。延命院の後方にも石垣が昇っており、そこに謂れのある畑地があります。位置的には延命院のすぐ上にある土地です。周囲の棚田の狭小さに比較すると、ずいぶん広く感じます。現在はミカン畑になっています。
 謂れがあると申しますのは、その畑地に明治頃まで長楽寺があったと伝えられているからです。長楽寺のことは前章でも少しふれましたが、もう一度、木原の謂れと合わせて考えてみます。
 山口県風土誌によると、長楽寺は明治三年西向寺へ合併、西長寺となる、とあります。その明治三年は特別な年だったらしく、時期を同じくして大島町内の多くの寺院が廃寺に追い込まれたようです。歴史ではそれを明治の廃仏棄釈と言っています。いわゆる神仏分離の結末であり、国家の圧力のもとに行われた活動です。
それによる記録は疑わしいものが多く、記録をそのまま信用せずに現場を見た方が正しい史実を出せることが多々あります。
 この長楽寺にしてもそうで、個人的見解ですが、木原に長楽寺があったとは考えられないわけです。疑うのには一応の根拠がありまして、
延命院は風土注進案に記載してあります。それほど昔から存在していました。明治時代に長楽寺を廃寺にして、なぜ延命院を残したのでしょう。もし私が廃仏棄釈の担当者だったとしたら、延命院こそ真っ先に廃寺にします。それほど延命院は史実を克明に伝えているわけです。延命院後方の高台には近世まで何か存在していたのかもしれませんが、そもそもその高台こそが早戸大神の跡地ではないでしょうか?そして、早戸大神の方位を継承しているのが、高台の下に在る延命院だということになります。
 では、延命院がなぜ早戸大神の方位を継承しているかについて見てみます。
 別図は延命院の方位線上にある主要地点を書き出したものです。先ず拝礼方位を見ますと、
神代八幡宮を経て、銭壺山頂の西側にある天狗さまと呼ばれている小さな社を通ります。正確に天狗さまを指しています。方位線が次に到達する所は、銭壺山の北東隣に位置する大将軍山です。大将軍山は銭壺山より少し低い山で、山頂に霧峰神社が祀ってあります。延命院の方位線は、その霧峰神社参道にある一の鳥居付近に至ります。
 総合して重要な点は、銭壺山は伊勢に関連した祭祀場があったと推定される山です。伊勢は日の出に関係していますから、日の出の時期などを多角的に調査していきますと、銭壺山は伊勢に関連してきます。琴石伊勢との連係による原点です。銭壺山に祭祀場があったことは、山中に存在していた遺跡からも充分に考えられます。遺跡は主に石積み遺跡ですから、年代設定は困難です。現在はそれらの遺跡を中世の仏教関連の遺跡というふうに考えられているようです。事実、中世の時代には坊舎も相当に存在していたとおもわれますが、伊勢の祭祀に関連した遺跡ということについても考えてみたいところです。銭壺山を玖珂郡志の記録では銭坪とも書き、古い名称は「
目舞ヶ岡」と呼ばれていたようです。初代伊勢については、この本の続く巻三で明らかにしてみたいと思います。本題の大事な点として、木原延命院は初代伊勢の祭祀場を拝礼する形になっていることです。伊勢とかかわりがあるという点については、早戸大神は「祓戸神」を祀っていました。その事は竈八幡宮の由来に記してあります。「祓戸神」とは伊勢の神です。
 現代の三重県伊勢神宮の話になりますが、伊勢神宮から全国の氏神(地域の神社)を通して頒布されている「天照皇大神宮」と記してある伊勢神宮の神札(伊勢大麻)は、俗に「おはらいさま」とも呼ばれています。すなわち、祓戸神とは伊勢を意味しています。木原延命院の方位は初代伊勢の祭祀場を拝礼していますから、伊勢を祀っていた(祓戸神)早戸大神の方位を継承していることがわかります。延命院は言うまでもなく寺院です。なぜ早戸大神が寺になったのかは、記録にありますのでその一節を載せておきます。

 真言宗牛頭山 長楽寺  (風土注進案より)
 (途中より)弘仁九年の春、天下大に疫病流行し、国民戸に叫び、路に倒れ、悲観の声は野にかまびすし。然るに当寺の開山實恵阿闍梨、本尊地蔵菩薩の秘法ならびに摩多梨神の密法を修ぜられば、近里遠境の諸人、鬼病立つ所に平服し、
疫神跡を隠す。蘇生の歓喜の眉を開けり。是ひとえに延命院地蔵菩薩の霊験。實恵阿闍梨之戒徳之なさしむる所なりと、道俗男女奇異の思いをなし、信心肝に銘じ、参詣の諸人昼夜群集せることあたかも市のごとしと、しかいう。(以下略)

 「疫神跡を隠す」と、明瞭に記してあります。跡とは早戸大神の古跡のこと。その古跡に延命院を建てて隠したわけです。神域を寺院で隠したら、ちょっとわかりません。ところが、方位線上に在るものを分析していくと、寺院でありながら神道一色の方位を持っていることがわかります。よって、
延命院は早戸大神を継承しており、長尾八幡宮の拝礼方位に入っているのも納得できます。

 (日見 西長寺についての研究)
 延命院は長楽寺に関係がありまして、簡単に言うなら、長楽寺の記録欄を借りた一種のカモフラージュです。ところが、長楽寺自体にもカモフラージュを施してあり、現状では本来の姿が見えて来ません。長楽寺とはいったい何なんだ、ということになってきます。と申しますのも、風土注進案には以下のように記してあります。「同所西向寺へ合併改号西長寺」この一節が有るばかりに惑わされます。朱色の文字で記されたその一節は後の時代の加筆です。
 本来の姿を知るには、本尊(依り処とする仏像)が極めて重要な位置を占めてきます。古記録を見ると、長楽寺の本尊は不動明王です。そして、延命院の本尊は地蔵菩薩です。そのことをよく頭に入れて風土注進案を読んでみると、長楽寺の欄は大部分が延命院の記録になっている事がわかります。
 長楽寺を知るには、西向寺をよく理解する必要があります。記録の大事な部分を載せてみます。

 護摩堂一宇   (風土注進案より)
 本尊 阿弥陀如来 木刻座像 長一丈六尺
 縁起
 大佛尊は、かたじけなくも西方浄土の阿弥陀如来(途中略す)故、一切衆生を菩提の門に結縁往生成佛なさしめんがために、
西の方に向へたまへば西向寺と號す。(以下略) 

 御覧の通り護摩堂とある大仏殿が西向寺です。書物によっては大仙堂と言うこともありますが、それは大仏堂と大師堂が変化したものです。その証拠に明治年中に描かれた西長寺の絵図では、大仏堂が大師堂と記されています。なぜ、こんなことがわからなくなったのかと申しますと、仏教には宗派があります。この場合ですと、「一切衆生を菩提の門に 〜 」と説くのは浄土宗であり、浄土真宗の理論です。さらに年代をさかのぼりますと、四宗融合、万人成仏を説いた天台宗の考え方でもあります。これらの宗派は、今でも本尊を阿弥陀如来としています。日見大仏の阿弥陀如来は、かって本尊として崇拝されたこともあるはずです。弘法大師を開祖と崇める真言宗には、率直に申しますと、他の宗派の崇拝する本尊を安置していては具合が悪い、ということになるわけです。大仏がなぜ本尊とならずに、海から拾われてきた仏像になったかは、寺と仏教の宗派の移り変わりが多大な影を落としていると言えましょう。現代に至ってもそうしたことはあります。
 古記録にある西向寺とは、現在の大仏殿のことです。そして、ナゾめいている長楽寺とは、現在の西長寺本堂が、かっての長楽寺です。その証拠に古来より本尊は不動明王です。両寺は写真でもわかるように、中央に小川と道路がありまして、それを挟んで隣り同士の関係です。
その隣り同士の西向寺と長楽寺を、名のみ一つに合わせて西長寺としたのでしょう。

 日見大仏の解説板によると、藤原時代の作とあります。私にはもっと古い時代に彫られたと思われてなりません。特に台座(蓮華座)の彫り方と形状は、浮島の樽見観音にある三十六観音の一つと極めて似ていることを記しておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・以上、本用の原稿より抜粋。・・・・・・・・・・・・・・・

 実際に移したのは延命院の上に在ったと推測される早戸大明神です。その神霊は上関の竈八幡宮に御幸されたようです。往古の早戸大神は初代伊勢に関連しており、それは今も延命院の拝礼方位として残されています。また、それを継いでいる竈八幡宮の神紋は「太陽の紋」として今でも御神札に見ることができます。文字通り「橘」のごとく昇って来る太陽をそのまま紋章にした図柄です。

 推察するに、由来での大仏は何処かから運ばれて来たようですから、もしそうなら、最初は木原延命院のある早戸大明神の跡地に安置されていて、大昔に現在地へ移されたのかもしれないなと思うのであります。ハヤトだからこその大仏なのでしよう。



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