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赤崎神社

山口県柳井市阿月神崎

再確認及び撮影・2014年6月



この道の少し向こう(カーブの辺り)右手に阿月神明祭の海浜砂浜があります。

東神明がアマテラス、西神明がトヨウケであり、伊勢が主体になっています。









6月に参詣すると、参道石段にはドクダミの花が咲いていました。





私はこの文字の読み方がわからず、以前は志嶋社と読み間違えていた時もあります。赤崎社です。






この長い石段を見ても、ただならぬ神社であることは推察されます。

今は裏手を走る県道側から車でも上がれます。






石段から垣間見える阿月海岸。







赤崎神社・位置

N 33度53分59.5秒

E 132度07分32.9秒

位置精度 +- 6m

拝礼方位 282度









方位を分析しますと、この赤崎神社は拝礼方位主体であり、典型的な神社方位の形態を持っていることがわかりました。

現状の方位は282度または283度です。日本の神社は木造建築ですから、長い年月に

建て替えの必要が出て来ます。一般的には継続されて来た社殿と同じように再建します。

問題は、礎石の上に柱を置くわけですから、方位角度が1度や2度のズレが出ることです。

そのズレ値を明確にするために指針となる社寺があります。

この赤崎神社の場合は、どの社寺が指針となっているのか明確になりませんでした。

つまり、どの方位線にも指針となる社寺があるわけです。

現状方位の282度から1度ずつ左右に振ってみます。


先ず現状である282度の場合、平生町田名の神花神社の参道入り口(鳥居の所)になりました。

そのまま伸ばしますと、光市室積の普賢寺になります。左方位線に上関の竈八幡宮が入っています。


次に283度で引いてみますと、右方位に柳井市遠崎の松堂八幡宮が入りました。

左方位線には上関天神が入ります。


次に281度で引いてみますと、上図のように神花山古墳になりました。


これをどう見るかは、ご都合主義になりますが、神花山(古墳)を意識していることは明確です。

そうすると、火の祭りでもある阿月神明祭と神花山は密接に連携していることが見えて来ます。



重要な問題点は、この阿月・赤崎神社は古記録に記載してありません。

古記録に記載してないという点では伊保庄の厳島神社もそうですし、

伊保庄菅原神社もそうです。歴史上重要な神社は記録に見あたらないんです。

古記録の編纂方法は、それぞれの地の庄屋が書いて提出しますから気付かなかったということは理由になりません。

歴史上最重要な神社は古記録から削除されていると見ました。明治時代編纂の山口県風土誌を見ますと、

赤崎神社は嘉永七年三月に今の地に移転となっています。嘉永は六年までしか無く、嘉永七年という年代はありません。

明治時代編纂の記録ですから年代を間違えたというのは理由になりません。

そうした訳で、この赤崎神社は古来より今の場所に在ったという証明です。



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阿月神明祭


天保年中編纂の防長風土注進案より引用。

祭事

当神明の儀は東西二か所にありて、例歳正月十四日長け五六丈ばかりなる大鉾を立つ。

これを神明と云。これを十三日に造り置く也。その形は三四間ばかりなる松の木を五本切り揃へ

縄にて結ひ、その末には竹を継ぎ縄を以って繁く巻き立てる。またその末をば大竹を枝ながら

差し込む。これを眞篠と云。(途中略す)鉾飾り調へば東西この鉾を建てる事の前後の遅速を争ふ。

立てた後、鉾の前にいささかの神楽殿を設け、幣帛神供を供へ、参詣通路の左右に垣を結ひ、

其処に幟を立て、挑燈などを掛ける。神飾り調ひて後、造酒など飲み、人々拝礼して帰る也。

その夜は暮れ方より参詣人多く、夜に入れば社人来て神事始まる。良有りて神事終わりければ

東西共に頭取の者、新燧火(しんすいか・ひうち石で出した火)蝋燭に移し、浪打ち際に出て潮にて

身を清め、この火を以って鉾の前後左右に付け廻る。この時、年の程二十前後の勝れて達者なる

者ども貳三十人身を軽く出で立ち、腰に斧を指し手には幣を持ちて鯨聲を作り同じく浪打ち際に出、

潮にて身を浄め、燃え上がる鉾の本を廻ること数遍、火餅柴に移りていよいよ盛れば一同に鯨聲を

作りて渚の方に曳き倒し、猛火の中に飛び入り、繁く結ひ束ねたる縄竹を切り分けに五本の松の木

を曳き出して群衆の見物の方に投げ廻る。ようやく火の鎮まりければ一同に鯨聲を上げて帰る。

是を神明をハヤスと云。其の跡は世話方の者ども打ち寄りて取り片付けるなり。



此の火にて餅を焼いて食へば其の年の厄難を除き、
小児に食はしむれば疳疾なし、また其の灰を
取り置きて田畑の蟲をも去れり。



かくばかり仰山(ぎょうさん)なる事なれど怪我せし人なし。希有(けう)に怪我せし人を尋ぬるに、

みな忌服ありし人なり。この故に忌服ある人は近寄る事叶はず。奇瑞世に知るところに御坐候。




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柳井市史より引用


阿月の神明祭

阿月の神明祭は、旧暦の小正月に行われた壮大な「火祭り」である。

最近は新暦の二月十一日に行われる。(後略)





神明祭の行事

阿月神明祭は、神明と呼ばれる東西二体の大鉾を御神体として行われる。

神明祭はこの神明の起こし立てによって開始され、ハヤス(燃やす)ことによって終結するのであるから、

この神明に神を招き、まつり、そして送るのである。(中略)この神明を作製することを「巻く」という。

この作業は前日までに行われる。神明の構造は松竹梅の縁起を基に、ダイダイ(橙=代々)や御幣など、

子孫繁栄や厄除けの意味をこめたものとなっており、興味深いのは故村上磐太郎氏にあてた広島県

竹原市忠海町の高崎神社宮司の書状(村上文庫所蔵)に、「沼田本郷・三原・忠海のいずれの神明祭に

おいても、御山(阿月の神明にあたる)の下をくぐる習慣があり、特に痘瘡(とうそう・天然痘のこと)に

かからないという伝説をもつ」旨のことが誌されていることである。後述のように阿月の神明祭が忠海の

ものと密接に関連することを考えると、阿月のものにもそのような習慣があったのかもしれない。すなわち、

中心の柱を支える四本の「足」で囲まれた空間は、神霊の「力」が籠るウツロであった。明治十年代に

至るまで東西の神明が「神明宮」を持たず、祭りが終ると、その祭具ほ御宝蔵と称するホグラに収納して

いたというのも、神明そのものが御神体であることの証左で、現在のように組み立て式の仮神殿が

設けられる以前は、おそらくこの空間こそ神の宿る空間であったと思われる。なお、現在は衰微

しているが上関にも神明祭があり、そこでは御神体となる松や竹を切り出すと海上を船で引き、

湾内を練って回る「アシ迎え」という行事を伴っている。(後略)


ジョウゲと起こし立て

さて、一月十三日までに巻き終えられた神明に、十四日早朝に横幣がとりつけられ、

さらに一段高く真幣が結ばれると、身を清めて白の鉢巻・肌着・足袋を身につけた若者たちが

「ジョウゲ」と呼ばれる長持状のものと、酒樽をかついで各地区を練り歩く。

「ジョウゲ」の語源は明らかでないが、淨笥と書けば神饌を思わせ、上下と書けばあちこち

歩き回ることを意味する。たとえば猿回しの巡業、一本釣り漁民の県境を越えての移動をジョウゲ行き、

ジョウゲに出るなどという類である。さらにこのジョウゲの練り歩きの際、娘や婦人をからかい、

卑猥な言葉で恥ずかしがらせて喜ぶといったことが行われていたといい、ジョウケル(ふざける

おどける)という言葉も考えられる。名詞か動詞かはともかく、長持状のものは何かの「入れもの」で

あることは間違いなく、その中身は神衣が入っていたともいい、神輿的な意味を持つものであろう。しかし、

このジョウゲがいつごろからのものであるかは明らかでない。このジョウゲが東西神明宮に戻ると、

神明の「起こし立て」が始まる。東西はその遅速を競い、そのために喧嘩も日常茶飯事だったという。

紛議は江戸時代から激しかったが、明治十四年の祭りには前年の大晦日に巻立てるといった無茶苦茶な

騒ぎとなり、ついに明治十六年に協定を結び、以後たびたび改正されて現在に至っている。現在の神明は

かっての小神明程度の大きさ(15メートル前後)にすぎず、かっては30メートルくらいの神明を立てたと

いうから、さぞや壮観であったろう。


神明踊り

起こし立てが終ると、過去一年間に嫁を迎えた若者が強引に寒中の海に投げ込まれる。これは同時に

「若連中」からの脱会の儀式であり、また祭りの後には、十六歳になる若者が酒を持って若連中のところへ

行き、若者宿への出入を認められる入会の酒宴を開いたことと対応させると、この神明祭は村の青年に

とって、重要な区切りでもあったことを示唆する。さて、阿月の神明祭りには神明踊りという踊りが昼夜二回

行われる。踊り手は男女とも未婚の者に限り、男子は忠臣蔵赤穂義士討ち入りの場、取替傘踊り、柳生但馬守

と十兵衛などを、女子は菅笠の笠踊りなどを踊る。いずれも古俗を残すものはなく、おそらく祭りの運営主体が

民衆にまで下りてきた時点で導入されたものであろう。この踊りが武者踊りであることをもって、この祭りに

軍神祭としての性格を付与することは危険である。神賑わいは、神力に対する感謝、祝福の行為であるが、

肝心の神明そのものには軍神の性格は見出せないからである。ただ、この踊りが武者踊りであることと、

この祭りが浦氏の文禄・慶長の役に起源するとの伝承とは無関係とは思えず、踊りの導入時において

いきおい武者踊りの形式をとったものであろう。


はやす

夜の神明踊りが果てる十二時ころは満月の引き潮である。男たちは踊りの衣装を脱いで、起こし立てのときと

同じ淨衣となる。昇神の式が済むと、総代によって神明に火がかけられる。神明を焼くことを「はやす」という。

餅紫が火につつまれ、神明が一本の火柱となるころ、若者たちの手によって海に向かって引き倒され、

すばやく引き綱が取り外されると、見物の人々はまだ燃えさかる神明の飾りや、御幣などを我先に奪い合う

のである。神木の松は抜き出され、浜に並べられて、若連中の手拍子で祭りは終了するのである。

翌日は神明の炭火で餅を焼いて食い、また先述した若連中の仲間入りの日でもあった。



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以上、諸本より引用しました。


阿月神明祭は戦国時代に他所から伝わって来た祭りという伝承もあるようですが、

阿月神明祭を記した防長風土注進案には次のように記してあります。

(小早川隆景が祈願した場面の後より引用)

「是より御本領藝州忠海に於いて此の祭事あり、今も彼の地に連綿たり。」

すなわち、阿月神明祭で祈願した後に、他所でもこの祭事が始まった、ということです。


この神明で最も重要なことは、東神明にアマテラスを祀り、西神明にトヨウケを祀ってあることです。

どちらも伊勢の女神であり、そして、箕山の神武堂が阿月・赤崎神社を拝礼する構造になっていることは大事です。

昔には難事を語り伝えようにも文字はあって無きようなものでした。文字があってもそれを読める人は

限られた人だったでしょうし、記録して書物で伝えたとしてもそれが残るとは限りません。

物事を後代に伝え残すには祭りという無形にして伝えるのが確実だったのです。


神明祭は女王国でもあった初代ヤマトの支配者の交代を意味しており、

その交代劇が神明祭でもあります。交代劇とは、侵略のことです。

誰と交代したのかは、神武堂が明白に語っているようです。


これらの災難は、今の伊勢神宮に引き継がれています。

伊勢神宮の正殿中央の床下には心御柱(しんのみはしら)という忌柱(いみばしら)が立ててあります。

厳重な秘事とされており、神官しか見たことがなく、深いナゾに包まれて来ました。

その忌柱こそが阿月神明祭の鉾に相当する物でありましょう。


祭りには全ての責め苦が入っています。

寒責め・恥責め・火責め・水責め・投げ責め。

だからこそ、伊勢神宮では「忌」という言葉が多く使われているのです。

これ以後、かっての女王国である日本の王(天皇)は、男王が占めるようになります。

つまり、伊勢神宮は日本が女王国であったことを無言のうちに伝えているのです。





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